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フランス通信(2005年12月)

❖2005年12月7日
世界を見て聞いたオランダ人

国連気候変動枠組み条約第11回締約国会議と、京都議定書の締約国会合ー―わかりやすく言えば、温暖化をもたらすガスの削減義務について話し合う国際会議が、11月28日から12月9日までモントリオールで開かれている。一般庶民の次元だと、「このところ水が荒れている」と言うシャーマン(いとうせいこうさんの11月21日の日記)のように、気候がおかしいと感じている人は多いし、科学者や環境保護団体が警鐘を鳴らしているのに、京都議定書にサインしなかったブッシュ(アメリカ合衆国は地球全体の温室効果ガスの23%を出している)をはじめ、政治・経済の指導者レベルでは「あとは野となれ山となれ」(じゃなくて砂漠と海になるのか。ヴェネチアもバングラデシュも海中に沈む)の無責任さ。地球の破壊を食い止めるには、今やサステインド(ながもちする)開発では間に合わない、開発「縮減」にしなければと主張する人々もいるが、指導者たちにとっては経済成長を止めるなどという発想はとても受け入れられないのだろう
(参考 http://www.monde-diplomatique.fr/2003/11/LATOUCHE/10651
便利で快適な生活になれてしまったわたしたちにしても、省エネ度の高い機器を選ぶとか、やたら使い捨てはしないとか程度のことしかしていない。この調子では、2008年から12年までに温室効果ガスを1990年のレベルより5%削減するという京都議定書目標は、とても達成されそうにないらしい。おまけに、削減の義務のない発展途上国の急激な産業開発によって、松花江汚染のような災害もどんどん起きそうだ(参考: http://climate2005.greenpeace.ca/primer )。

さて、ちょうど今、オランダのドキュメンタリー映画作家にして写真家、ヨハン・ファン・デル・コイケンのの『The Flat Jungle(平坦なジャングル)』という1978年の作品がパリの映画館で上映されているので、観にいった。ワッデン内海沿岸の風景とさまざまな生き物、漁師、バカンス客、工場や農場で働く人々、原子力発電所反対運動などが淡々と映されている。あのフランドル派の絵のような灰色の空、泥色の海、ミミズ、幼魚、カレイ……。人々もまた、淡々と語る。「以前は性能の悪い網と小さな漁船で、もっと大量の魚がとれた。船が大きくなるとすごく重油を食う」「この釣り用ミミズが世界中に輸出されるんだよ」(漁師たち)。「工場勤務には今でも慣れないね、圧迫感があって」(元漁師)。「工場のおかげで雇用ができるのはいいことです」(労働組合員)。「機械化・合理化のおかげで牛の数も増えて満足です。数十頭に増やしたい、大きく発展したいですから。ええ、合理的な経営ができない人は、農業を続けられなくなりますね」(若くダイナミックな農民)……。ときおり「うまくやれない者は排除される」というナレーションが入る。

環境と経済についての先見に満ちていたこの作品は、環境団体の発注によるものだったが、説明的なエコロジスト宣言にはなっていない。ミクロとマクロの世界を同等に、そして静かに映し出す独特の視線が、心を打つ。ファン・デル・コイケンは98年、癌で余生が長くないことを医師から知らされ、「世界を見て聞く」旅に残りの人生を捧げようと、音響技師の妻ノシュカと共にブータン、ネパール、アメリカ、ブラジル、ブルキナファソなどに足を運び(遺作『ロング・ホリデー』)、2001年に亡くなった。74年の作品『映画作家の休暇』で彼は、「私には地球の顔が見えない。私は地球の肩越しに光を見ている……」と語っていた。スクリーンや写真のフレーム上に(それは不可能だという前提のもとに)いかに世界を表象するかを探求したファン・デル・コイケンの画像・映像は、「他者に目を向け、耳を傾けたい。世界を理解したい」という感受性から生まれ、観る者の想像力と思考をかきたてる。テレビの映像とはまさに対極だ(参考: http://www.johanvanderkeuken.com/ 、http://www.city.yamagata.yamagata.jp/yidff/docbox/18/box18-3.html)。

ちなみに、上記の山形国際ドキュメンタリー映画祭のサイトとは異なり、ファン・デル・コイケンはオランダ領事館のサイトや最初の写真集『17歳』の日本版では、ファン・デル・クーケンと表記されている。オランダ語のできる人に聞いてみたら「クーケン」のほうが原語に近いそうだが、外国語の固有名詞の日本語表記は、ときにこういう問題が起きるから難しい。コイケン=クーケンの場合、映画と写真の両方で表現した彼の作品群が日本のネット上では分断され、たとえばオランダ領事館のサイトから山形国際ドキュメンタリー映画祭にリンクしていかないのが残念だ(日本のインターネット上で、彼の写真集が「雑貨」コーナーで紹介されているのも悲しい)。

❖2005年12月13日
これからの朝の色

12月13日、カリフォルニアの死刑囚、スタンレー・ウィリアムズ、通称「トゥーキー」が24年の獄中生活の後に処刑された。無罪を訴えつづけ、青少年向けに暴力反対の本を書くなど、ノーベル平和賞の候補に上がるほどの模範囚だったが、シュワルツェネッガー知事は減刑の嘆願を却下した。http://www.amnestyinternational.be/doc/article.php3?id_article=6403
 http://www.tookie.com/
獄中からギャング戦争の防止に力を尽くし、南アフリカ共和国にまで非暴力の影響を与えていた人物、つまり「善良な市民」よりもおそらくずっと多くの命を救うことに貢献していた人間を殺す決定を下したシュワルツェネッガーたちの勧善懲悪思考とは、いったい何だろうか?

フランスでも郊外の騒ぎのあと、移民や治安政策の硬化など逆行・反動化が確実に進んでいる様子で、なんとも気分が悪い。実は、2002年の総選挙で政権についたラファラン保守内閣時代からそれは顕著で、大統領選の第一次投票で国民戦線のル・ペンが2位をとった同年4月以前にもう、徴候があらわれていたと思う。でも、サルコジがル・ペンと同じことを平気で言うようになり、しかもそれで彼の人気が世論調査で上がってしまうのだから、今や一線を越えた感がある。それなのに左翼は腰抜けでろくな反撃ができず、フィンケルクロートという「有名知識人」がまったくピント外れの反動的な発言(「暴動」の原因を民族・宗教だけに求める、知識人とは思えない浅はかで感情的な解釈)をしたりする(むろん、わっと反論されたが)。ブルデューとデリダ亡きあと、この愚かでたちの悪い政府や排外的な風潮に対して確固として闘う力のある知識人は、この国にはもういないのだろうか? このまま放っておいたらやばいんじゃないの? と思っていた矢先に、得意満面で大統領戦に向かって疾走を始めたサルコジの鼻をくじく出来事が起きた。

12月7日、フランス海外県マルチニックとグアドループ(アンティル諸島)に出発する予定だったサルコジは、急遽訪問をキャンセルした。素因は、今年の2月に可決された海外からの引き揚げ者に関する法律に遡る(10月15日付「過ぎ去らない過去」参考)。この「2005年2月23日法」の「教育カリキュラムは海外、特に北アフリカにおけるフランスのポジティヴな役割を認める」という条項に対して、歴史学者や教員など多くのフランス市民とアルジェリアが抗議していた。そもそも、政治家が公式の歴史を定めるなどもってのほかだし、植民地支配のポジティヴな役割を学校で教えよとは何事かと。11月29日、社会党はこの法律の撤廃を国民議会で提案したが、多数派与党UMPの反対で却下されてしまった。一方、海外県・領土ではこの法律と、郊外の若者を「ごろつき」よばわりしたサルコジへの反感がますます高まっており、サルコジ訪問に備えてマルチニックでは「歓迎」の統一抗議デモが企画された。県庁所在地フォール・ド・フランスの市長を長年務めた作家・詩人のエメ・セゼールは、島を訪れる重要人物には政治色にかかわらず全員会うのを習慣としていたが、その彼が「内務大臣サルコジとの面会は受け入れられない……私は自分の見解に今も忠実であり、断固とした反植民地主義者である。2005年2月23日法の文面と精神に賛同することはできない」というコミュニケを発表した。

エメ・セゼール(92歳)は、セネガルの故レオポルド・セダール・サンゴールと共にネグリチュード(黒人性)運動の父として、またその後のアンティルの作家に影響を与えた大文学者として、マルチニックでは生き神のように慕われ、フランス社会で尊敬を受けている人物だ。(参考: http://www.afriqueweb.net/ecrivains/aime_cesaire/index.php )

同じくマルチニック出身の作家、エドゥアール・グリッサンとパトリック・シャモワゾーも、サルコジあてに手紙を送った。奴隷制と植民地支配を受けた土地の多様な源泉に根をおろし、複数のアイデンティティを展開するクレオール文学の代表的作家である彼らは、アンティルの土地は「交換と分かちあい」を教えてくれたとその手紙で述べ、過去の犯罪を認めた共通の記憶と、別の「共生」のしかたを構築していかなくてはならないと主張する。

島民の反発とエメ・セゼールなど文学者の抗議によってサルコジが訪問をキャンセルしたのは、とんでもない法律と今の反動的風潮に対する初めての勝利だ。1987年、翌年の大統領選のキャンペーンでマルチニックに行こうとしたル・ペンもまた、島民の絶大な反発と抗議デモのために訪問を断念したのだった。

ドヴィルパン首相は12月8日、「議会は歴史を書くべきではない。人々の苦悩を聞かなくてはならない」と、言葉の上では2005年2月23日法の非を認めたが、サルコジと大統領候補の座を争っている手前、与党議員のメンツをつぶして嫌われたくはないので、撤廃する気はないようだ。翌9日、今度はシラク大統領が同様に法律は歴史を書いてはならないと語り、「記憶と歴史の分野における議会の行動を定める複数見解による委員会」の設置を告げた。何かにつけ委員会やら調査会を設けて時間を稼ごうという、いつもの手だ(3ヶ月で報告書を書く)。ここにいたってようやく左翼諸政党が奮起し、超党で「撤廃のための統一署名」を始めた。http://www.abrogation.net/

フランスでは2001年に、海外領ギアナ県議員のクリスチャーヌ・トビラの提案で、奴隷制と奴隷売買を「人道に反する犯罪」と認める法律ができた。グアドループ出身の作家マリーズ・コンデを長に「奴隷制の記憶のための委員会」が設けられ、既に報告書も出されたが、設定されるはずの記念日も具体化していないほど、政府の腰は重い。コンデ、シャモワゾー、トビラたちは、マイノリティの運動が陥りやすい人種主義や単一文化的視点を越え、身をもって複数の文化を生き抜いている。こうした人たちの豊かな視点と意見が早く国政に反映されないと、ますます差別と排除の対象になってきた人々の不満と被害者意識はさらに高まり、人種的・民族的アイデンティティに閉じこもってしまうだろう。

1998年の地方選挙で保守の一部が国民戦線と手を結ぼうとしたのを見て、フランク・パヴロフという作家は『茶色の朝』を書いた。市民の事なかれ主義がファシズムを助長することを描いた11ページの短い寓話だ。著者が印税を放棄したため1ユーロで出版されたこの本は、ル・ペンが第二次投票に残った2002年4月の選挙直後にラジオで紹介されて大ベストセラーになり、数十万部以上売れた(日本語版は藤本一勇訳、ヴィンセント・ギャロのイラストと高橋哲哉のメッセージつき、大月書店)。「いやだと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ」と語り手が気づいたときはすでに遅かった。眠れない一夜が過ぎて茶色に染まった朝早く、彼のアパートのドアを誰かが強く叩く……。

そうならないために70人の法学者が、行政・立法の諮問機関であるコンセイユ・デタに緊急事態法の撤回を求めたが、「年末にまた騒動の起きる危険がある」として、却下された(12月10日)。一方、歴史学者につづいて左翼政党が共同で呼びかけた2月23日法(問題の第4条)の撤廃要求には、続々と署名が集まっている。ラッパーのジョイ・スターなど若い世代がつくった「記憶の義務」という団体は、若者たちに選挙者リストへの登録を呼びかける運動を開始した。サッカー選手のリリアン・チュラムや俳優のジャン=ピエール・バクリらも後援している。今、大勢の人が「おかしい」「いやだ」と言い、行動するかどうかで、これからの朝の色あいがきまっていくだろう。

「茶色の朝」 原文:  http://www.humanite.presse.fr/journal/2002-07-27/2002-07-27-37737

追記:12月13日、ジャン=ピエール・アゼマ、ピエール・ヴィダル=ナケなど19人の歴史学者たちは、2005年2月23日法の第4条に限らず、歴史を法律で規定するような条文はすべて(前述の奴隷制についての法も含めてこれまでに4例)撤廃すべきだという声明を発表し、新たな議論が起きている。

❖2005年12月20日
携帯電話カルテル

巷で頻繁に謳われる「自由競争」のルールが、現実にはちゃんと守られていないことを示す(であろう)ニュースがあった。11月30日、フランスの携帯電話契約の99.76%をシェアする3企業は、自由競争審議会から計5億3400万ユーロ(約750億円)に及ぶ罰金の判決を受けた。3社は1977年から2003年まで定期的に契約数などの情報を交換しあい、00年から02年のあいだにヤルタ協定さながら、お互いの市場シェアを協定し、高い料金を保障したというものだ。このカルテル3社とはでかい順に、フランス・テレコム系列オランジュ、二大独占給水業から発展したヴィヴァンディ・グループのSFR、建設業界のリーダーであるブイーグの電話会社ブイーグ・テレコムだ。いずれもフランスを代表する巨大公私企業。協定が事実だったら、まったく破廉恥なやつらだよね。

3社は「ゆえなきこと」「法外な罰金」などと抗議して控訴したが、消費者向けにその根拠を詳しく説明した(当然あるべきの)反論を公表していない。一方、自由競争審議会のほうには、留守電やハードディスクに刻まれたメールのメッセージやら手書きメモやら、証拠がいっぱい揃っているらしい。罰金は総売上額の3%(オランジュ、SFR)と1.6%(ブイーグ・テレコム)だが、この種の罰金では最高10%まで要求できることになっている。自由競争審議会は、90年代の終わりから世帯の消費において電話代の負担が高くなりすぎ、経済に悪影響を与えたと判断している(Nouvel Obsの掲載記事)。

フランスの携帯電話の普及率は69.1%でヨーロッパではかなり低いほう、多くの国には携帯電話オペレーターが5~6社あるという。自由競争審議会の独自調査と同時に、02年から「消費者同盟」(UFC)という市民団体が携帯電話のカルテル3社を告発していた。商品比較テストで有名な「何を選ぶか」という消費者情報誌を発行し、危険食品のボイコットなども呼びかける頼もしい民間の消費者団体だ。3社に課された罰金は国税庁に支払われるため、被害者の各市民が賠償金を得られるよう、訴訟の手ほどきをしている。約3000万人の被害者(わたしもそのひとりだ)の賠償総額は12億ユーロ(約1700億円)と推定されている。

たしかに、携帯電話料金は固定電話に比べて異常に高い。ADSL回線と国内の固定電話への通話が使い放題という1ヶ月のパッケージ料金と、1ヶ月2時間の携帯電話契約料が同じくらい(約30ユーロ)なのだから。長距離や国際電話料金も大幅に下がった今、日本に1時間かけるより、すぐそばの人の携帯に5分かけるほうが高かったりする。そうか、電話代なんてただみたいなものだったんだと、みんな気づき始めた。でなきゃ、週末・夜間かけ放題とか、いちばん頻繁に使う3つの番号にはかけ放題とかのサービスが出てくるはずがない。設備投資のもとがとれて利益率があがったため、回線のあいている時間とかでサービスするのだろうが、「こんなに安くなるなら、今までずっと高く払いすぎてたんじゃないか?」と利用者が疑いたくなるのも無理からぬことだ。

携帯電話がおいしい商売なのは、多くの人にとってそれが仕事でも私生活でも必需品になったからだ。携帯を持たない人(何人も知っているが)は、クロマニヨン人のごとく思われて市場から排除される。おまけに携帯メールなど便利な技術のせいで、私的領域でも人々の依存度はますます高まった。フランスでは、携帯番号に送るメッセージ(SMS)が一般化したが、これは1回の通信が15サンチーム(約21円)もする。消費者同盟の調査によると、広告・マーケティング費を考慮しても単価は2.21サンチームですむそうで、他のヨーロッパ諸国では値下がりしたのに、99年以来フランスで値段が動かないのはおかしい(5サンチーム程度でもじゅうぶん利益がある)と主張している(UFC-Que choisirのサイト)。値段が高くても、とりわけ若い世代はこのコミュニケーション手段にはまっているから、「SMSボイコットの日」を消費者同盟が呼びかけても、どんどん使う(12~25歳は毎月80近くSMSを送るそうだ)。友だちどうしの日常的なメッセージ交換に毎月12ユーロも払う(親が?)のは、愚かしくはないだろうか。文庫本が2冊買える。

お金をとられるだけでなく、携帯電話・携帯メール(SMS)という便利で手軽な通信技術が私的領域に入ってきたことで、コミュニケーションのありかたにも変化が起きている気がする。誰かと「いつもつながっている」状態がふつうになってしまうと、その仲間や家族との関係がさらに密に、依存的になる一方、それ以外の他者と出会う機会が減り、まわりを見なくなるのではないだろうか。

成人した息子に日に3度電話をかける母親がいるなどと聞くと、ぞっとしてしまうではないか。外国にまで携帯電話をもっていく旅は、息苦しいのではないだろうか。通信技術が発達してグローバル・ヴィレッジなんて言われているのに、ドメスティック度というか部族社会・村社会度が高まってきた感じがするのは、現実での活用の大部分をなすこの過剰にして貧困化したコミュニケーションのせいだろうか?

電磁波にがんじがらめにされた自由って、その程度のものなのかもしれない。せめて、不当に高いお金をとられたくはないよね。

❖2005年12月27日
かわいそうなナルニア

ディズニーがまた余計なことをしてくれた。そう、『ナルニア国物語』の映画化だ(日本では来年3月封切り)。『ハリー・ポッター』の世界的大ヒット以来、青少年文学を大スペクタクル映画にして、『スター・ウォーズ』的にキャラクター・グッズなどに展開するとおいしい商売になることがわかったので、トールキンの『指輪物語』につづいて、C.S.ルイスのナルニア・シリーズに白羽の矢が立ったというわけだ。ディズニーは『シュレック』の監督を使い、子どもとファンタジー・ファンを狙うと同時に、メル・ギブソンが監督した問題作『パッション(キリストの受難)』(このサイトにある「真実」「事実」について、フランスでは歴史学者、神学者、キリスト教会などから批判・抗議が出て問題になった)の大成功に目をつけ、キリスト教信者に対してもキャンペーンをはった。その結果、アメリカ合衆国で封切りされた最初の週末に、6700万ドルの収益を記録したという。

キリスト教信者、それもギブソンの映画に殺到したほとんど原理主義的な人たちをだしにするのは、子どもをターゲットにして儲けることより「えぐさ」度が軽いような気もする。子どものときに愛読した思い出の書が、人間は神につくられたと信じ、妊娠中絶を「悪魔のしわざ」とか言う人たちに熱愛されているのは、なんか不快だけれども。フロリダ州知事のブッシュの弟は先月、州の小学生に『ナルニア』を読ませたという(12月初旬の封切りに備えて? そういえばフロリダにはディズニーがあるんだね)。そりゃ『ナルニア』には天地創造やら復活やら、キリスト教の要素が溢れている。勧善懲悪の二元主義もまあ強い。ルイスはもとは無神論者だったが、友人トルキエンの影響でキリスト教信者になったそうだ。ふたりとも、イギリス二大名門大学の教授だっただけに保守的だし、彼らの世代の偏見にとらわれた部分もある。現代イギリスの代表的ファンタジー作家のフィリップ・プルマン(無神論者)は、勇敢な少女を主人公に、二元主義に陥らないもっと複雑な世界観を描いている(『ライラの冒険シリーズ』。宮崎駿についても同じようなことが言えるだろう)。でもまあ、おとぎ話なんだから、王さまや天地創造などが出てきて、善が悪に勝つのは当然ともいえる。それをおとなが崇めるのは、気味が悪いけれど。

おとなのキリスト教信者がハリウッドのいいカモにされてもアーメンと笑っていられるが、子どもの欲求をやたらかきたてて儲けようとするやり方には、腹が立つ。おまけに、夢を与えるとか謳いつつ、これら商業的エンターテイメントは人々のイマジネーションを破壊しているのだ。だいたい、名作を映画化するとろくなことはない。ジェームス・ジョイスの短編『ザ・デッド/ダブリン市民』(ジョン・ヒューストン監督)のような例外があるにせよ、ほとんどの場合、映像はイメージを固定し、想像の世界を貧しくしてしまうと思う。それに、既にスペクタクル映画にイマジネーションを汚染された現代人が書いた小説なら、映画化もうまくいくかもしれないが、『指輪物語』のように複雑で厚みのあるファンタジーを映画の時間・空間的文法にはめこみ、追跡など特撮を駆使したゲーム的映像にアレンジするのは、あまりにもむごい。だから、『指輪物語』の愛読者の息子は映画を観にいかなかったが、本を読んでいなかったクラスの子たちは観にいき、高いグッズなども買った。映画を観た子どもがあとで本を読むかというと、ほとんどの場合ノーだ。

『ナルニア』の場合はさらにひどい。フランスではなぜか、この児童文学の世界的古典が長いあいだ無視されていて、2001~02年にようやく翻訳された。つまり、フランス人の親は誰もナルニアを読んでいないのだ。ガリマール社の青少年文庫から出た7巻は美しく読みやすい装丁だが、『ハリー・ポッター』の人気にはとても及ばなかった。ところが、1か月ほど前から本屋の青少年文学コーナーは突如として、『ナルニア』洪水に襲われた。7巻を1冊にまとめたぶ厚い版が新たに刊行され、絵本(映画の写真入り)や解説書など、映画の封切りに備えて大キャンペーンがはられたのだ。「1冊にまとめても意味がないし、表紙もよくない(映画のアスランの顔)。それにあんな重い本、読みにくいよ」と息子は言ったが、今週のベストセラー番付で3位を記録した。

なるほど、みんなクリスマス・プレゼントに買ったんだね。フランスは日本とちがってえらくぶ厚い本がよくベストセラーになる。読書人口(本を読むのが好きでたくさん読む人)は少ないのだが、いや、だからこそ、年に一冊くらいぶ厚い本を買って読もうと思うのか、プレゼントにするには厚い本のほうが立派に見えるのか、厚い本を読むのが偉いと思っているのか、とにかくぶ厚い本が売れるのだ。子どもに本当に本を読んでほしいと考える親なら、7巻に分かれた文庫の『ナルニア』を買うだろう。あのぶ厚い『ナルニア』を買った人たちは、「ああこれ、映画もできて流行っているから、買ってやらなくっちゃ」とグッズのように思ったのだろう。ふだん本を読まない子どもが、こんな厚い本をいつ、どこで、どんな姿勢で読むのだろうか、という疑問は浮かばなかったのだ。そういう浅はかな人たちと、近年の出版業界の商業戦略によって、本は遂にグッズになってしまったのだ。泣けてくる。

で、映画も大当たりしそうだ。12月21日の初日に30万人以上というニュースを耳にはさんだから、『キングコング』と『ハリー・ポッター4』をおさえて今週のボックス・オフィス(入場者数番付)の1位になりそうな勢い(全国900スクリーン以上で公開)。クリスマス休暇中とはいえ、3年前まで誰も知らなかった『ナルニア』のこの商業的成功(フランスではキリスト教信者向けのキャンペーンもなかった)は信じがたいというか恐ろしいというか……。こんな簡単に大勢の人がキャンペーンにのせられる社会になったら、なんか危ないよね。それにしても、リメイク、焼き直し、青少年文学の古典の映画化など、大手映画産業のイマジネーションの欠如は深まる一方だなあ。

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