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フランス通信(2006年1月)

❖2006年1月3日
冬休み

『先見日記』は12月29日(木)から1月4日(水)まで冬休みです。

1月5日(木)にあらためてお会いしましょう。

❖2006年1月10日
エレーヌの場合

大晦日の晩から元旦の朝にかけて、フランスでは425台の車が燃やされ、前年(333台)より多かったけれども他の破壊はなかったし、特に危険な状況にもならなかったとのことで、「緊急事態令」は解除された。不当で危険な特別法の状況が終わってくれて、ほっとした。

年の初めだし寒い季節なので、ぽっと温かい気分になれるような話題を紹介しよう。新年早々、フランスでは異例の裁判が行われた。被告は、1980年にパリで銀行強盗に加わったがメキシコに逃れ、別の名のもとで2004年まで暮らしていたエレーヌ・カステル(社会学者、ロベール・カステルの娘)だ。ラファイエット通りのBNP銀行を襲撃し、人質をとって逃げようとした7人組(うち女性2人)のうち、ひとりは駆けつけた警官隊に発砲したため逆襲されて死亡、3人は捕まって84年の裁判で懲役(10年、8年、5年)を受け、ひとりは無罪になり、残りのひとりは現在にいたるまで捕まっていない。エレーヌは欠席裁判で終身刑の判決を受けていたが、それが時効になる4日前の2004年5月12日、同年サルコジ内相が新たにつくった「指名手配者追跡中央局」の活動によってメキシコで逮捕された。

彼女の逮捕が報道されたとき、まったくサルコジは酷なことをするものだと憤慨したのを覚えている。そりゃ銀行強盗は犯罪にはちがいないが、外国の警察まで出動させて追いつめるべき犯罪人は、初めての強盗をしくじったエレーヌのようなしろうと以外に、もっとたくさんいるのではないだろうか。7人組は70年代後半、パリ20区のスクワットで共同生活をしていた理想主義の若者たちで、左翼的とはいえ政治活動とは無縁だった。スクワットが次々と閉鎖されたためいきづまり、働きたくないので銀行強盗を思いついたらしい。アメリカに逃れてからメキシコに渡ったエレーヌは自力で働き、学び、精神療法医になって今年20歳になる娘を育てた。事件当時21歳だった彼女は、信望の厚い40代の働く母親になっていた。

84年に実刑を受けて服役した3人は、それぞれ医者、歴史学者、自営業者となって完全に社会復帰したため、前科もとり消されていたが、エレーヌの再審に証人として出頭を求められた。償いを終えて精算したはずの過去に、突如として呼び戻されたわけだ。彼らの実名がメディアで発表されたら、現在の生活や仕事に支障の出てくる可能性もある(25年前に銀行強盗を働いた人の会社に発注したくないクライアントや、拘留の事実を隠していたことを裏切りと感じる友人がいるかもしれない)ので、ジャーナリストのあいだでは議論がおきたという(http://www.liberation.fr/page.php?Article=348821)。

エレーヌはメキシコで3か月、フランスで11か月間拘留された後に、自由の身で法定に臨んだ。娘との生活を失うことを恐れて自首しなかった彼女はでも、逮捕されたことでかえって負担が軽くなり、気持ちが楽になったと語った。射撃の応答の中で脚を負傷した当時の銀行支店長、従業員、銀行の弁護士ら原告側は全員、エレーヌに非常に同情的な証言をした(彼女は見張り程度の小さな役割しか担わなかった)。刑務所の文章教室での指導でエレーヌと知り合った作家のナンシー・ヒューストンは、彼女のために自ら証言を申し出た。検事総長でさえ、エレーヌが誠実に罪を反省し、すでに社会復帰している点を強調し、名弁護士アンリ・ルクレールの出番がないほど赦しの精神にあふれた裁判となった。ルクレール弁護士はそれでも、祖国に戻れずに隠れて生きていく追放/亡命の身の辛さを語り、「時間は悔いる者を罰する」と時間がもたらす赦免の権利を弁じた。法律において時効のない罪は、人道に反する犯罪と戦争犯罪だけだ(http://www.unhchr.ch/html/menu3/b/p_limit.htm)。

判決は執行猶予2年。エレーヌは長い非合法の人生を清算して、自由の身となった。投獄とセラピーのような裁判の後の、めでたい再出発のようにわたしには思えた。「若気の過ち」のせいで7人組のひとりは命を失ったが、3人は獄中生活、エレーヌは亡命生活の中から新しい人生を築きあげた。もうひとり、この7人組とは関係ないが銀行強盗などを犯して長年拘留され、獄中で学んでわりと有名な哲学者になった人がフランスにはいるが、これら過ちと痛みを通り抜けた強靱な人生の話は、人間の可能性を示してくれるようで元気が出る。そして、昨今の「厳しく罰せよ」風潮の中で、珍しく寛容な精神を見せたこの国の司法と、覗き見趣味に陥らなかったメディアのまともな態度にも、嬉しい気分になった。

❖2006年1月17日
ゴールキーパーの孤独

フランスは生誕・死去XX周年という記念行事がやたら好きな国だ。2006年はたとえばモーツァルト生誕250周年にあたるが、1月のメイン・イベントはなんといってもミッテラン大統領の死去10周年だった。

死後ちょうど10年にあたる1月8日の日曜には、ミッテランの生家とお墓のあるジャルナック(フランス中部シャラント地方)でフランソワ・ミッテラン博物館のオープニングとお墓参りが催され、社会党の幹部だけでなく前首相のラファランなども参列した。この巡礼の中心人物は、ミッテラン大統領が長年隠してきた娘マザリーヌで、次期大統領選候補争いなどで分裂の激しい社会党の新旧重要人物がみんな仲良く集まって、故ミッテラン大統領を讃えるという象徴的な儀式となった。マザリーヌはこの機会にテレビをはじめメディアに積極的に登場し、「巡礼」に参加しなかった「正妻」のダニエル夫人の方は、同日の午後の人気テレビ番組に出演した。パリ市では15日までミッテランの思い出の場所10か所に「ミッテラン散歩道」がもうけられ、ミッテランの回顧展を催した社会党本部は1月8日に一般開放され、3万人が訪れた。ミッテランについての評伝や回想記はこれまでも多数出版されているが、10周年にあたって元特別顧問のジャック・アタリ、大統領府官房長官を務めたユベール・ヴェドリーヌをはじめ、ジャーナリストや元運転手の本などが続々と刊行され、アタリとヴェドリーヌの本は売上の上位に食い込んでいる。つまり、現政権を握る保守与党や、ミッテランを批判したジャーナリストの声はほとんど聞こえないミッテラン称讃ブームになったのだ。ブームを裏づけるかのように、1月初めに行われた「第五共和政において誰が最良の大統領だと思うか」という世論調査で、ミッテラン(35%)はド・ゴール将軍(30%)を初めて抜いて1位になった。

メディアのこうしたイベントづくりにはうんざりするが、懐古ブームをよぶほどフランス人がミッテランに称讃や愛着を感じるのは、なんとなくわかる気がする。抜群の政治手腕、知性と深い教養、鋭敏なエスプリと辛辣なユーモアを備えていたミッテランは、敵も味方も魅了する傑出した人物だった。文学とフランスの土壌を深く愛した点や巧みな会話術も、フランス人の心をつかんだ資質といえるだろう。回顧番組で流れたミッテランのインタビューや演説は実際、思わず聞き入ってしまうほど才知に富んでいる。それに比べると、現在の指導者たちの語りはひどく平坦(あるいは大げさ、ヒステリック)で、少しも心に響かない。

もっとも、ミッテランが大統領に当選した1981年5月10日の晩にバスティーユ広場に駆けつけて歓喜した人々(わたしも友だちと行った)の多くは、その後2期14年にわたるミッテラン時代(そのうち4年間は保守政府)のあいだに、より平等で公正な社会をめざすはずだった左翼の理想がつぎつぎと裏切られたことに、強い幻滅を感じたのだ。それに、大統領の権力が強い第五共和政を批判していたはずのミッテランは、ひとたび大統領になると「君主」とか「神」とさえ呼ばれるほど専制君主的にふるまい、まわりには王政さながら「廷臣」のような人々が集まり、非合法の盗聴事件や側近の汚職スキャンダルも起きた。さらに、ナチスに協力したヴィシー政権のパリ警察事務局長ブスケ(パリのユダヤ人一斉検挙と収容所送りの責任者)と親交をつづけた事実が暴かれたことは、大きな衝撃をよんだ(ピエール・ペアン著『Une jeunesse francaise』)。

それでも、ミッテランは「トントン」(おじちゃん)という愛称で呼ばれたほど思想や世代を超えて人々に好かれた。ひょっとしたら、この複雑で、アンビヴァランス(両面性)と矛盾に満ちた人格ゆえに、多くのフランス人はミッテランにひきつけられたのかもしれない。この国の文化には、一筋縄ではいかない影のあるものを好むところがある。隠し子がいたことについても、英米とちがってフランスでは公的人物の私生活のゴシップは問題にしない習慣だったから(サルコジが極度に妻をメディアにひけらかしたせいで、最近はちょっとアメリカ的になってきたが)、一般の反応はとても寛容だった。それどころか、愛人のひとりやふたりいる政治家の方が尊敬されるお国柄かもしれない。それよりフランス人が驚いたのはおそらく、ミッテランが大統領に当選した半年後に癌に冒されていることを知り、それを(夫人にさえ)隠しながら15年近くひとりで闘いつづけたことだろう(病が公表されたのは92年)。大統領の健康状態を公開するのは選挙公約のひとつだったから、ミッテランは偽の健康診断書を医者に書かせつづけたのだ。

今年、ある精神分析医が84年にミッテランにインタビューしたときの映像が初めて放映された。その中に死についての質問があったが、それに答えた彼は当時、自分に迫る猶予期間のわからない死と闘っていたわけだ。ミッテランは距離を置いたクールな態度で、第二次大戦中に死と直面した体験を語っていた。今思うと、ラ・デファンスの新凱旋門(グランドアルシュ)、ルーヴルのピラミッド、バスティーユのオペラ座、国立図書館などいくつもの巨大な建造物に注がれた自分の軌跡を歴史に刻もうとする彼の情熱は、毎日の孤独な死との闘いに根ざしていたのかもしれない。でも、それらに勝るミッテランの主要な業績は、死刑廃止ではないかと思う。

1996年1月7日の晩、ミッテランはそれが最期の晩になることを決めて、付き添っていたタロ医師に遺言書を渡したという。最期の瞬間まで自分でコントロールし、秘密を保った強靱な人生だった。精神分析医とのインタビューで印象に残ったのは、ミッテランが子どもの頃から団体活動を嫌い、参加したのはサッカーくらいで、それもゴールキーパーだったという話だ。「他の人々の動きがよく見えるからね」と笑顔で言った。

先見とは逆の回顧/懐古になってはまずいので、ミッテランが残した名言集の中から、先見的に思えるものをひとつ紹介したい。「時に時間を与える」という言葉だ。ますます即時性と情動に流される今の世の中だからこそ、噛みしめたい言葉のような気がする。

追伸:社会党の次期大統領候補として今、いちばん人気のあるセゴレーヌ・ロワイヤルは、ミッテラン巡礼に参加せずにチリ大統領選キャンペーン中のミッチェル・バチェレを応援に行った。バチェレはみごと当選して、南アメリカで初の女性大統領が登場した。

❖2006年1月24日
女性は男/人類の未来

2005年12月に世界の人口は65億人を超えた。フランスの人口は約6290万人、1999年から05年のあいだに平均0.64%増えつづけた。で、この人口増加の原因は何かというと、移民によるのではなくて、比較的高い出生率を保ちつづけていることだという。フランスの合計特殊出生率(ひとりの女性が一生のあいだに産む子どもの数の平均)は1.94で、EU25か国ではアイルランドに次いで2位。子だくさんなイメージの強いスペイン、イタリアなど南ヨーロッパとドイツは1.3前後、旧東欧圏は1.2で、いちばん低いのはチェコの1.2以下だ(参考1/参考2)。フランスの出生率が高い理由をl'INSEE(国立統計経済研究所)の所長は、「国の家族政策、とりわけ援助金のおかげと、他の国より女性が仕事と家庭を両立させやすい環境にあるから」と説明している。

フランスはかつて、他のヨーロッパ諸国に比べて出生率が低かったため、労働力や兵力を確保しようと移民を積極的に受け入れ、伝統的に多産奨励政策がとられてきた。戦後のベビーブームのあと1975年から出生率が落ちたが、出産手当や乳幼児手当、保育費援助だけでなく、3人目の子どもからしかもらえなかった家族手当を2人目からにしたり、ベビーシッターの雇用費を国が援助したり、育児のために仕事をやめる親に国が援助金を払ったり、低所得家庭には新学期手当や給食費割引を与えたりなど(複雑でよく変わるので詳細は割愛するが)、実にさまざまな援助を国が行ってきていて、出生率はたしかに上がった。

もっとも、援助金を受けて育児のために仕事をやめる親は大多数女性だし、ベビーシッターの雇用費援助はそれが払える豊かな家庭しか受けられないわけだから、個人的には賛成しかねる措置もある。また、北欧に比べると産休は少ないし(父親の産休は02年にやっとできた)、労働時間短縮法(週35時間法)で増えた自由時間や休暇を子どものためにあてるのは、やはり女性のほうが多い。何より、重要な会議を夜の7時に始める習慣など、仕事の世界は子どもの存在などまったく無視しているから、家にベビーシッターを雇える女性か、よほど子育てと家事に協力的なつれあいのいる女性しかキャリアをのぼり進めない。「女性が仕事と家庭を両立させやすい」環境という点ではだから、フランスはまだまだ北欧に及ばないと思うが、婚外児やシングルマザーを法的にも社会的にも差別しなくなったことや、子どもを産んだ女性が仕事をつづけるのは当たり前になったメンタリティの変遷のおかげで、より多くの女性が子どもを「あきらめなくなった」ということは言えるだろう。他の先進国と異なり、フランスでは子どもをつくらない女性の割合が減ったのだ(2世代前には2割だったのが現在は1割)。

一方、スペインやイタリアなど南ヨーロッパで出生率が落ちたのは、より多くの女性が働くようになっても保育園、保育ママなど社会による保育援助制度が不十分なところに、核家族化によって伝統的な家族援助(おばあちゃんの助け)が得られなくなったという事情が大きいようだ。人々のメンタリティもまだ、働く母親に好意的ではない(ドイツもそうだ)。日本と韓国の状況も、南ヨーロッパ・ドイツ型に似ているだろう。東アジアの場合はとりわけ、教育費がものすごくかかることも大きな要因だから、子どもの保育・教育費の社会化の遅れ(どころかネオリベ経済化)がもたらす弊害にもっと目を向けるべきではないだろうか。

さて、世界全体を一瞥すると、40年前の人口学者の予想がはずれて、ニジェールやアフガニスタンなど少数の例外を除くと、第三世界においても女性の出生率は急激に下がった。そのおかげで、人口増加のスピードが落ちたのだ。現在、合計特殊出生率が最も高いのはアフリカ中部で平均6.4だが、東南アジアは2.7、南米では2.5に下がった。出生率が低下したいちばんの要因は、教育を受けて社会に進出する女性が増えたことで、男性優位主義の強いイスラム圏や南米でも、この世界的な傾向にはさからえないようだ(イランの出生率は現在1.82)。

つまり、爆発的な人口増加の危険があるアフリカなどの国々で、もっと女性が教育を受けられて地位が上がるようにすれば、出生率は下がって極端な人口増加は避けられるはずだ。一方、少子化の著しいヨーロッパや東アジアでは、働く女性が子どもをつくりたいと思える環境(社会による保育・教育費援助や、男性との育児・家事の分担)づくりに真剣にとりくまないと、人口減少の危険(合計特殊出生率2.1以下)は現実のものとなる。そして、出生率の最も高いサハラ辺境の国々を援助するだけでなく、EUの壁に拒絶されるアフリカ人(05年10月18日付「EUの壁」参照)を先進国は受け入れたほうが、世界人口のバランスに調和をもたらすことになるのではないだろうか。(参考)

いずれにせよ、地球の未来がどうなるかは、社会における女性の地位にかかっているのだ。ルイ・アラゴンの詩句をもとにジャン・フェラが歌った「女性は男/人類の未来だ la femme est l'avenir de l'homme」という台詞をみんな、噛みしめてみよう。

2005年12月に世界の人口は65億人を超えた。フランスの人口は約6290万人、1999年から05年のあいだに平均0.64%増えつづけた。で、この人口増加の原因は何かというと、移民によるのではなくて、比較的高い出生率を保ちつづけていることだという。フランスの合計特殊出生率(ひとりの女性が一生のあいだに産む子どもの数の平均)は1.94で、EU25か国ではアイルランドに次いで2位。子だくさんなイメージの強いスペイン、イタリアなど南ヨーロッパとドイツは1.3前後、旧東欧圏は1.2で、いちばん低いのはチェコの1.2以下だ(参考1/参考2)。フランスの出生率が高い理由をl'INSEE(国立統計経済研究所)の所長は、「国の家族政策、とりわけ援助金のおかげと、他の国より女性が仕事と家庭を両立させやすい環境にあるから」と説明している。

 フランスはかつて、他のヨーロッパ諸国に比べて出生率が低かったため、労働力や兵力を確保しようと移民を積極的に受け入れ、伝統的に多産奨励政策がとられてきた。戦後のベビーブームのあと1975年から出生率が落ちたが、出産手当や乳幼児手当、保育費援助だけでなく、3人目の子どもからしかもらえなかった家族手当を2人目からにしたり、ベビーシッターの雇用費を国が援助したり、育児のために仕事をやめる親に国が援助金を払ったり、低所得家庭には新学期手当や給食費割引を与えたりなど(複雑でよく変わるので詳細は割愛するが)、実にさまざまな援助を国が行ってきていて、出生率はたしかに上がった。

 もっとも、援助金を受けて育児のために仕事をやめる親は大多数女性だし、ベビーシッターの雇用費援助はそれが払える豊かな家庭しか受けられないわけだから、個人的には賛成しかねる措置もある。また、北欧に比べると産休は少ないし(父親の産休は02年にやっとできた)、労働時間短縮法(週35時間法)で増えた自由時間や休暇を子どものためにあてるのは、やはり女性のほうが多い。何より、重要な会議を夜の7時に始める習慣など、仕事の世界は子どもの存在などまったく無視しているから、家にベビーシッターを雇える女性か、よほど子育てと家事に協力的なつれあいのいる女性しかキャリアをのぼり進めない。「女性が仕事と家庭を両立させやすい」環境という点ではだから、フランスはまだまだ北欧に及ばないと思うが、婚外児やシングルマザーを法的にも社会的にも差別しなくなったことや、子どもを産んだ女性が仕事をつづけるのは当たり前になったメンタリティの変遷のおかげで、より多くの女性が子どもを「あきらめなくなった」ということは言えるだろう。他の先進国と異なり、フランスでは子どもをつくらない女性の割合が減ったのだ(2世代前には2割だったのが現在は1割)。

 一方、スペインやイタリアなど南ヨーロッパで出生率が落ちたのは、より多くの女性が働くようになっても保育園、保育ママなど社会による保育援助制度が不十分なところに、核家族化によって伝統的な家族援助(おばあちゃんの助け)が得られなくなったという事情が大きいようだ。人々のメンタリティもまだ、働く母親に好意的ではない(ドイツもそうだ)。日本と韓国の状況も、南ヨーロッパ・ドイツ型に似ているだろう。東アジアの場合はとりわけ、教育費がものすごくかかることも大きな要因だから、子どもの保育・教育費の社会化の遅れ(どころかネオリベ経済化)がもたらす弊害にもっと目を向けるべきではないだろうか。

 さて、世界全体を一瞥すると、40年前の人口学者の予想がはずれて、ニジェールやアフガニスタンなど少数の例外を除くと、第三世界においても女性の出生率は急激に下がった。そのおかげで、人口増加のスピードが落ちたのだ。現在、合計特殊出生率が最も高いのはアフリカ中部で平均6.4だが、東南アジアは2.7、南米では2.5に下がった。出生率が低下したいちばんの要因は、教育を受けて社会に進出する女性が増えたことで、男性優位主義の強いイスラム圏や南米でも、この世界的な傾向にはさからえないようだ(イランの出生率は現在1.82)。

 つまり、爆発的な人口増加の危険があるアフリカなどの国々で、もっと女性が教育を受けられて地位が上がるようにすれば、出生率は下がって極端な人口増加は避けられるはずだ。一方、少子化の著しいヨーロッパや東アジアでは、働く女性が子どもをつくりたいと思える環境(社会による保育・教育費援助や、男性との育児・家事の分担)づくりに真剣にとりくまないと、人口減少の危険(合計特殊出生率2.1以下)は現実のものとなる。そして、出生率の最も高いサハラ辺境の国々を援助するだけでなく、EUの壁に拒絶されるアフリカ人(05年10月18日付「EUの壁」参照)を先進国は受け入れたほうが、世界人口のバランスに調和をもたらすことになるのではないだろうか。(参考)

 いずれにせよ、地球の未来がどうなるかは、社会における女性の地位にかかっているのだ。ルイ・アラゴンの詩句をもとにジャン・フェラが歌った「女性は男/人類の未来だ la femme est l'avenir de l'homme」という台詞をみんな、噛みしめてみよう。

❖2006年1月31日
人間になりたい

1月29日は旧暦のお正月だった。チャイナタウンの限りなく近所に住んでいるため、毎年しっかり旧正月を意識させられる。爆竹や太鼓の音、レストラン・店先の獅子舞、大がかりな龍のパレード……道路は新年を祝う幟(中国語とフランス語)で飾られ、新年のパーティを告げるポスターがあちこちに貼られる。今年のパレードはパリ中心部、6区、13区の3か所で日もずらして催された(13区は2月5日の日曜)。

さて、年も変わったところで、昨年の10月末から3週間、フランス各地に波及した若者たちの「暴動」について、いくつかつけ加えておこうと思う。きっかけとなった2人の少年の感電死についての調査はいっこうに発表されないが、家族は優秀な弁護士をふたり雇った。時間はかかるだろうが、警察は彼らを追っていなかったというサルコジの嘘が暴かれ、真実が明るみに出ることを期待したい。いっしょに変電所に隠れて感電したが運よく命をとりとめた少年は12月15日に退院し、警察に追跡されたとの証言を繰り返した。彼らは、家に早く帰らないと親に叱られるので逃げたのだという。警察に捕まったら、何もしていなくてもそう簡単に家に帰してもらえないことがわかっていたから……。

サルコジは、騒動の最中に逮捕された若者たちの大多数に前科があるなどと不実の発言をつづけたが、裁判所も警察も彼らの多くが初犯で、名前が知られていた未成年の場合、児童虐待の被害者だったことを指摘している。セーヌ・サン・ドニ県の青年司法保護組織によると、捕まった未成年(13~16歳)の多くは学業の遅れと家族問題を抱えた不安定で未熟な子どもたちだという。

若者たちの反抗は宗教・民族的なものではなく、リーダーも要求の言葉もなく、暴力として爆発した。その素因、恵まれない郊外団地の状況や差別など経済的・社会的要因をしっかり認識し、早急に真剣な政策をとることが求められているが(残念ながら、政府の対応にはその姿勢が見えない)、放火や破壊に走った少年たち(男の子ばかりだ)の「社会での居心地の悪さ」についても、もっと深く繊細に考える必要があるのではないかという気がする。昨年12月に催されたセーヌ・サン・ドニ県の児童精神科医の総会では、社会的不認知(誰にも認めてもらえない、愛されていない)に苦しむ青少年が増えているのに、精神ケアの予算・人員は甚だしく不足しているどころか、削減されているとの強い抗議がなされた。最初のアポまで平均3.8か月、時には6か月も待たされるので、ケアが必要な時に対応できないという。

車はそれほど燃やされなくなったが、以後、一部の中学・高校では校内暴力が増大した。そのほとんどが生徒による教師への罵り、侮辱的な行動、脅迫、そして実際の暴力行為だ。12月16日にはパリの南郊外エタンプ市の職業高校で、生徒が女性教師にナイフで重傷を負わせる事件が起きた。被害者の教師は、生徒たちから暴言や脅迫を再三受けたことを校長や教育区の視学官に報告して対処を求めていたが、何の対応も得られなかったため、退院後、教育省に対して訴訟を起こすことにした。

クリスマス休暇後の1月にも、女性教師に対する暴力行為が何件か報道された。教育省の統計によると、2004~2005年度記録された暴力行為は1651件に及ぶ。校内暴力(言語的なものも含めて)の頻発・日常化にはさまざまな要因があるだろうが、看護師や生徒監督、教師陣補佐役の不足(ジョスパン政権がつくった「若者職」を保守政権は廃止した。新たにつくられた補佐職の人員は足りないし、教師のポストも減らされた)や、教育優先地区に指定された「難しい学校」には経験の浅い資格修得直後の若い教師が派遣され、転任も激しいため教師陣の連帯が薄いこと、そして教育省と学校側に「なるべく問題を外に出したがらない」隠蔽傾向が強いこともあげられる。ナイフで刺された女性教師が勤める高校の場合も、彼女や他の教師たちの警告と対処を求める声に、校長・教育省側は耳を貸さなかったのだ(その後の内部調査でも、校長・教育省側にミスはないという結論が出された)。

加害者の少年はこれまでに2年間学校から遠のいていたこともあり、社会的不認知に苦しんでいたようだ。彼女が生徒たちに高校と自分の授業に何を望むかを書かせたとき、クラスの別の少年たちは次のような言葉を書いた。「一級射撃手になりたい」「先生が好きだよ」「働いて人間になりたい」……認められたい、愛されたいという欲求が罵りや侮辱の暴力的な言葉にしかならず、あるとき暴力行為として爆発するような気がしてならない。

成績の悪い生徒たち用に、もっと早くから職業訓練コースをつくることしか思いつかず、人員・予算は削る一方の政府に対して、セーヌ・サン・ドニ県の教師たちは1月26日にストライキを行った。政府は校内暴力に対する解答として「警察・司法とのパートナーシップ」を強調し、教育大臣は警官を常置しているロンドンの学校を視察しに行った。1月12日~14日にボルドーで開かれた校内暴力についてのシンポジウム(国際校内暴力観測所主催:http://test2.creaopenweb.com/)に参加した方が実りがあったのではないかと思うけれど……。

フランスでは、エリート抽出式の教育システムと伝統の強権的教育観(最近の反動化で復活した)自体が暴力を生み出す面も強いような気がする。日本の状況とは異なる面も多いが、「認められたい」「愛されたい」という子どもたちの苦悩には、なにか共通のものを感じてしまう。それを生み出した社会、つまり自分たちのありかたを考え直さずに、安易に悪者を探して他人事のように騒いでいるうちに、わたしたちはこれから先の社会をつくる子どもたちをどんどん壊してしまうのではないだろうか。

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