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フランス通信(2006年8月)

❖2006年8月1日
弱者の言い分

フランスではたいがいの人が、17世紀の作家ラ・フォンテーヌの寓話の一節を暗誦できる。21世紀の今も、小・中学校の授業で必ず習うからだ。そのラ・フォンテーヌ寓話集の第一巻の中に、「狼と子羊」という話がある(日本では原典のイソップ寓話のほうがよく知られている)。小川で水を飲んでいた子羊に狼がいちゃもんをつけ、有無を言わせず食べてしまう「不道徳」なエピソードだ。「強者の理屈は常に正しい」という有名な句で始まるこの話で、ラ・フォンテーヌはときの絶対君主、ルイ14世の専制をエレガントに揶揄したのだった。

「強者の理屈」を反転させた『弱者の言い分』(原題『La Raison du plus faible」』)という題の映画が封切りになったので、観に行った。

今年のカンヌ映画祭に出品された作品で、ベルギー出身のリュカ・ベルヴォーが監督とシナリオ、そして重要な役も演じている。この監督は2002年に、同じ物語を3ジャンル(喜劇、スリラー、悲劇)同時に撮影した三部作で注目を浴びたが、(『弱者の言い分』もずっしり心を揺さぶられる秀作だと思った(なぜ日本にはこういういい作品が配給されず、なまぬるく凡庸なフランス映画ばかり紹介されるのだろう?)。

舞台はベルギー南部のリエージュ郊外。かつて鉄鋼業で栄えた工業地帯だが、グローバリゼーションによって製鉄工場は閉鎖され、残ったのはビール工場やクリーニング工場くらい。製鉄工場を早期退職になったロベールとジャン=ピエール(後者は工場の事故で半身不随)は、失業者パトリックとカフェでおちあい、カード遊びでしばし灰色の日常を忘れる。彼らのグループに新しい仲間、ビール工場で働くマルクが加わる。

小学生の息子がいるパトリックは高学歴だが職が見つからず、家計はクリーニング工場で働く妻キャロルの稼ぎに支えられている。ある日、モビレット(原つき自転車)が故障し、バス通勤するためにキャロルはさらに早起きしなければならなくなる。妻に新しいスクーターはおろか、中古のモビレットさえ買ってあげられないパトリックは、鬱におちいる。マルクがかつて強盗を働いて刑務所にいたと知ったとき、ロベールとジャン=ピエールは友人パトリックのために、製鉄工場の処分で儲けている連中から金を強盗することを思いつく……現代のロビンフッド物語はむろん、ハッピーエンドにはならない。

ベルヴォーの祖父や叔父たちは、「労働者の貴族」とよばれた精練工だった。「彼らの時代は、辛い労働が自分たちや子孫の役に立つと信じることができた」とベルヴォーは語る。先週、人民戦線と有給休暇の話題で紹介した、未来に対して希望をもてた時代のことだ。もちろん貧富の差は大きかったし、労働・生活条件も今より厳しかったが、彼らはよりよい社会がくるという夢や確信をもっていた。それが今では、不安定な雇用と失業がますます多くの人の神経をすりへらし、働けど働けど貧乏なワーキング・プアは疲労困憊し、貧富の差は広がる一方だ。希望が許されず、弱者が「怠け者」「負け組」「自己責任」などと鞭打たれるシニカルな社会になってしまった。だからあえて『弱者の言い分』と題して、とても美しい弱者の人物像を描くベルヴォーの視線は、力強く優しい。

未来を思い描くことは人間の特性であり、夢と希望がなくなったら人は生き延びられない。弱者の言い分とは、人間の尊厳のことだ。

❖2006年8月8日
見えない戦争

広島・長崎の原爆記念日、終戦記念日とづづくこの時期に、中東での戦禍が拡大し、苦痛を覚える。イスラエルによるレバノン空爆の犠牲者の大多数は一般市民(非戦闘員)だし、ヒズボラもレバノン市民を「楯」にした「姿の見えない」戦法を展開し、イスラエルの市民を標的にロケット弾を打つ。イスラエル軍によるガザ攻撃はつづき、イラクでは内戦状態が恒常化し、アフガニスタンの状況も悪化している。

人権団体Human Rights Watchが8月3日に発表したレポートによると、イスラエルは炸裂爆弾(国際法により、市民の住む地域では使用禁止)を居住地区で使い、それ以外にも残忍な兵器、あるいは新型兵器を使っているという情報も流れている(Human Rights Watchが調査中)。ナパーム弾、燐爆弾、劣化ウラン爆弾……「大量破壊」の核兵器や化学兵器が使えないなら他の手段をと、非人間的な殺戮をおこす兵器がどんどん開発・商業化され、戦争のたびに使われていく。ジュネーヴ諸条約などの国際法が「民主主義」や「自由」の名目のもとに踏みにじられ、国連をはじめ国際社会はこれら人道に反する犯罪を阻止・制御できない。

7月29日に、フランスの歴史学者、ピエール・ヴィダル=ナケが亡くなった。1944年、彼が14歳のときに両親はゲシュタポに捕まり、アウシュヴィッツで虐殺された。アルジェリア戦争時は独立運動を支持して、フランス軍による拷問を摘発し、その後もパレスチナ国家の設立をよびかけるなど、政治面でも活発に行動し、つい最近はイスラエルのレバノン攻撃中止を求めるテキストに名を連ねた。正確な台詞は覚えていないが、彼はある時、「私はすべての空爆に反対だ、空から狙うと、人間的な次元が全く失われる」というような主旨のことを言った。正しい指摘だと思う。

第一次大戦以降、20世紀に入って戦争の規模が著しく拡大したのは、テクノロジーの発展による。司令部が前線から退いて安全な場所で戦略を練り、戦闘の核が生身の地上戦から空爆に移ったとき、戦争の質は変わった。「自国兵士の死者を最小限におさえて勝つには、どうするか」(そして、指導者は絶対に死の危険に晒されない)という観点で戦争法と兵器が開発されるにつれ、一般市民の犠牲者数は増えた。原爆だって、「これ以上の犠牲者を出さないために」という名目で投下されたのだ。空襲の体験談では、戦闘機が「まるでおもしろがっているように、犠牲者を狙い打ちした」ことなどが語られる。

ヴェトナム戦争に負けたアメリカは、戦争のむごい実情が報道されたために反戦運動が高まったと判断し、湾岸戦争以降はメディアの統制を徹底した。たとえばイラク戦争を報じるアメリカのテレビには、イラク市民の犠牲者の姿も、戦死した兵士の画像も映らない。自国兵士の死者を出さないように、攻撃はますます遠くから、ビデオゲームのように展開される。その世界では、人々が生活する町をはじめ「現実」は、スクリーン上のヴァーチャルな要素としかとらえられず、人間の命を思いやる感覚は微塵もなくなる。

レバノンに派遣されたマグナムのカメラマン、クリストファー・アンダーソンの写真と言葉が、リベラシオン紙に載っていた。「この戦争はほかのどれにも似ていない。見えずに音が聞こえるだけで、“戦闘一時停止”のときに犠牲者と破壊を撮影するしかない。ヒズボラは幽霊のように姿が見えず、私たちはすぐそばまで無人偵察(戦闘)機の音につきまとわれる。全壊した村があるのに、ビデオゲームの中にいるようなヴァーチャルな戦争だ。これほど自分を標的のように感じたことはない」彼はイラク、アフガニスタン、ボスニア、ガザなどの戦地に赴いている。

レバノンでは市民の犠牲者数が兵士の10倍に及び、その3割が12歳未満の子どもだ……21世紀の戦争は、テクノロジーの発達に比例して、非人道度がさらにエスカレートしている。遠い昔の権力者たちは自ら戦場に赴いて剣をふり、田畑を荒らして庶民を苦しめたが、民間人を狙って攻撃したりはしなかった。最も弱い民間人から殺戮する21世紀の指導者・権力者たちの人間性の退化には、めまいを感じる。

❖2006年8月15日
お盆休み

『先見日記』は8月14日(月)から19日(土)まで
夏休みです。

8月21日(月)にまたお会いしましょう。

❖2006年8月22日
タイ語のもたらした出会い

月の末に友人のライター、戸田杏子さんが亡くなった。料理を中心にタイの日常文化を描いた本の数々、動物園の本などの著者である彼女に、わたしは25年前の8月、バンコクで出会った。その頃すでにタイの魅力にとりつかれていた彼女は、取材をかねた旅の最中だったと思う。わたしは当時、パリ大学で文化人類学を学び、東南アジアに行くつもりで東洋語学校(パリ第3大学)でタイ語も習ったのだが、1度も行く機会がなかったので、その年はタイに寄ってから日本に一時帰国したのだった。

以後、わたしは日本に行くたびに戸田さんのうちを訪ね、彼女がつくるおいしいタイ料理を満喫しながら、彼女の大勢の友人たちと共に、豊かで底抜けに楽しい時間を過ごした。戸田さんがつくるタイ料理には、彼女そのままの大きな愛と情熱、優しさと温かさがこもり、ぴりっと強烈に辛かった。そして20年前、わたしがパリの撮影コーディネイト会社をやめて何をしようか迷っていたときに、「あなたは絶対に書くべきだ」と勧め、最初の翻訳と書き下ろしを上梓した晶文社を紹介してくれたのが戸田さんだった。だから彼女は、わたしをもの書きの道に導いてくれた恩人であり、日本での灯台のような存在だったと思う。わたしに限らず数多くの友人たちと読者に、大らかで、かつ細やかな愛を与えてくれた戸田さんに、ここで深い感謝の念を記し、ご冥福を祈ります。

戸田さんが命をかけた最後の仕事は、6年前に亡くなったおつれあい、動物画作家の藪内正幸さんの美術館を、息子の藪内竜太さんと共に創設したことだった。生前ヤブさんが鳥を描くためによく訪れたという、森に囲まれた山梨県の白州の美術館に、機会があったらどうぞ足を運んでみてください。(薮内正幸美術館http://yabuuchi-art.main.jp/

3年も習ったのに、タイ・レストラン以外ではほとんど何の役にも立たないわたしのタイ語は、そういうわけで戸田さんを中心に、日本でさまざまな人との出会いをもたらしてくれた。おもしろいことに、フランスでもタイ語のおかげで親友のひとりと出会った。実は今、南フランスに住むその友人の留守宅でバカンスを過ごしている。

彼女はインド、東南アジアや日本の文化に関心を抱き、東南アジアの研究をするつもりでタイ語を習い始めた。タイ語の授業を受ける学生はふつう、タイに住んだことがあるとか、タイ人と結婚しているとか、タイとゆかりの深い人たちで、一度も行ったことがないのに習っていたのは彼女とわたしだけだった。その後、彼女もいろいろな職についたが、あるとき歌への情熱を選び、現在はモンペリエ・オペラのコーラス団員をつとめながら、自作自演の音楽活動を進めている。

現在わたしはタイと東南アジアにはほとんど縁のない生活を送っているが、声調言語の中でもとりわけ美しい(とわたしは感じる)タイ語と東南アジア文明を学んで、日本、韓国、中国やインドとはまた異なる世界に少し触れられたのは、とてもおもしろかった。外国語を学ぶとき、コミュニケーションという実用面はもちろん大切だが、母国語とは異なる体系、発想・思考法、感性を発見できることも、大きな魅力ではないだろうか。それに、わたしにとってのタイ語のように、人生のすてきな出会いをもたらしてくれるかもしれない。

❖2006年8月29日
サン・パピエの軌跡

バカンス前に、サン・パピエ(非合法滞在の外国人)の合法化を要求する市民の運動が、学校に通う子どもたちの擁護をとおして広がったことを紹介した。
(「国境なき教育網」2006年5月2日先見日記参照・「代父母縁組」2006年6月6日先見日記参照・「夏の緊急体制」2006年7月4日先見日記参照)
対処を少し緩和するサルコジ内相の通達が出た6月13日から2か月のあいだに、全国で3万人近くのサン・パピエが書類を提出したが、合法化されるのは約6000人とサルコジは発表した。実際、国境なき教育網(RESF)の呼びかけに賛同した116000に及ぶ市民の署名と行動にもかかわらず、バカンス中に強制送還された人々がいる。

8月17日、パリ南郊外のカシャン市にあったフランス最大のスクワット(住民650人以上)から、大勢のサン・パピエを含む約500人が機動隊によって立ち退かされた。サルコジ内相は去年の9月、新学年の始まった日にパリのスクワット2か所から住人を強制退去させたが((「住まいを持つ権利」2005年9月13日先見日記参照)、同様に「非衛生的で危険な建物」を口実にした今回の強制退去の狙いは、サン・パピエへの「厳しい対処」をアピールることだろう(逮捕されたサン・パピエもいる)。(http://www.educationsansfrontieres.org/article.php3?id_article=1175

この強制退去は、10年前のサン・ベルナール教会の事件を思い起こさせる。1996年8月23日、合法化を求めて18区のサン・ベルナール教会にたてこもった300人強のサン・パピエと支援者たちを、当時の保守政府は力ずくで立ち退かせた。早朝、機動隊が教会の扉を斧で壊して押し入った象徴的な画像は多くの人にショックを与えた。前年、社会保障改革に反対する大規模な市民運動によって弱体化していた保守政府は、翌97年の総選挙で敗れ、左翼連立ジョスパン内閣に政権交代する。

サン・パピエの運動は、外国人の入国・滞在規制を強化した93年の第2パスクワ法によって、働いて長年生活しながらも滞在許可の得られない移民が急増したために起こった。サン・ベルナール教会ではハンストを40日間つづけたサン・パピエもいて、市民団体や労働組合だけでなく、演出家のアリアンヌ・ムヌーシュキン、科学者のアルベール・ジャカール、女優のエマニュエル・ベアールなどの支援を受けていた。

ジョスパン内閣は、移民法改革によって約8万人のサン・パピエを合法化したが、滞在許可を得られなかった数万人のうち、多くはフランスにとどまった。2003年11月にサルコジ内相は外国人の滞在規制を再び強化したためサン・パピエの数は増大し、今年の夏前の国会では規制をさらに厳しくした新移民法(第2サルコジ法)が可決され、10年間の滞在によって許可証の得られた制度が廃止された。夏の特別合法化は、支援運動の広がりに驚いたサルコジがとった「飴と鞭」政策で、ごく一部のサン・パピエに「お情け」で与えられた飴だ。

カシャン市のスクワット強制退去は多くのメディアでとりあげられたが、サン・パピエに関する報道に一貫して力を入れてきたリベラシオン紙は、今年の8月23日付で10年前のサン・ベルナール教会事件を再びとりあげ、10年にわたるこの運動を特集した。中でも、当時運動に参加したサン・パピエ10人の現在の状況を紹介した記事が興味深かった。合法化によって、ようやく母国に一時帰国できたアルジェリア人家族(でないと「落伍者」のレッテルを貼られ、共同体の「恥」になる)。フランス国籍をとってすっかり定着した青年。合法化後も他のサン・パピエのために闘いつづけ、「ここのひとりはあちらの10人を生活させる」と言うモーリタニア人。強制送還されたためにいまだサン・パピエの不運なマリ人。ハンストのせいで病弱になった男性(長期の病欠をとったら働いていた日本レストランから不当に解雇された)……。

当時のリーダー、アババカル・ディオップは滞在許可を得てネットビジネスに成功した後、母国セネガルに戻り、太陽エネルギー促進やインターネットを村々に導入するプロジェクトを進めている。もうひとりのリーダー、マジゲーヌ・シセ(ドイツ語教師)は、申請者全員の合法化が得られないので2000年に母国セネガルに戻り、環境保護的なプロジェクトを進める女性NPOの全国組織を運営している。フランスとドイツの市民団体や労働組合との繋がりと援助を利用して、女性の教育と社会進出を環境保護企画に結びつける「先見」的な活動だ。このふたりのリーダーの知性、ユーモアのセンスとエネルギーに、当時フランスのメディアと大勢の市民が魅了された。

サン・パピエを含む多くの移民は、豊かな国で3Kに携わって得る薄給によって、母国の家族や共同体の生存を支えている。移民の現象は南北問題であることが、サン・パピエの現状をみればよくわかる。でも、ディオップやシセの軌跡は、フランス(他者)との出会いによって豊かなものが生まれる可能性も示しているのではないだろうか。

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