神武夏子公式ホームページ
Kotake Natsuko's MusicLogDiscographyspecialcontactリンク
Official Blog youtube

フランス通信(2006年9月)

❖2006年9月5日
失われていくもの

美的感覚は時代や文化、そして人によっても異なるものだが、このところ巷に溢れている商品を見ると、多くの現代人の美的感覚は退化したのではないかと感じずにはいられない。たとえば、スポーツシューズ。息子の靴を買いに行くたびに、上質であまり値段がはらず、シンプルなデザインのスポーツシューズを見つけるのに苦労する。ここ10年ほどは、若者たちに人気のあるナイキなどの「ブランドもの」が主流になって、状況は悪化する一方だ。ブランドものなんて買いたくないし、値段が高いうえに恐ろしく醜い。いつからスポーツウェアは、こんな醜いデザインと色づかいになったのだろう?

スポーツをするわけでもない人々がスポーツウェアを身につけるようになった頃から、バカンス時には(涼しかろうが)バーミューダやショートパンツなど「バカンスの制服」をまとう人々が増えた。これがまた、ちっとも美しくない。今年の夏、人民戦線(フロン・ポピュレール)によって初めて夏の有給休暇を得た70年前の人々の写真を見たとき、その生き生きと歓びに満ちた表情に心を打たれたのに(「水辺ラッシュ」2006年7月25日先見日記参照)、現在のバカンス客が醜く見えるのはなぜだろうか?

思うに、それは「似合わない」服装をしているからだけではないだろう。バカンスや旅という非日常、未知のものに対する好奇心や冒険心のようなものが薄れ、「バカンス・モード」の定型的行動様式(服装もその一部だ)に従っているからかもしれない。

バカンス時にかぎらず、先進国の人々の多くは、メディアがかきたてる「若く・美しく」なりたい欲望にますます踊らされながら、実際にはどんどん醜くなっている……と、バルセロナのカメラマンJoan Colom(カタロニア語でジョアン・コロン、スペイン語ふうに読むとホアン・コロム)の写真展を見ながら思った。(http://www.rfi.fr/pressefr/articles/077/article_133.asp
http://www.colectania.es/colec/laColecDescAutor.cfm?IdFotogr=640&lletra=C

バリオ・チノ、あるいはラバルと呼ばれるバルセロナの庶民地区(売春街でもある)の人々と活気に魅せられたジョアン・コロンは、1958年から61年にかけて数多くの写真を撮った。64年に、その一部がノーベル賞作家、カミロ・ホセ・セラの文章とともに出版されて注目されたが、「売春街」の写真はフランコ独裁政権下の抑圧的なスペインで大スキャンダルを引き起こした。アマチュア写真家のコロンは論争を好まず、以後、会計士の職を引退する1986年まで写真をやめたという。今年、モンパルナスにあるアンリ・カルティエ=ブレッソン財団に展示された写真の数々は、2002年に再発見されたものだ。これらの作品によって同年スペインの全国写真大賞を受けたジョアン・コロンに、カルティエ=ブレッソンは2003年にバルセロナで出会い、フランス初のコロンの写真展が実現する運びとなる。(http://www.henricartierbresson.org/prog/PROG_archivespopup_fr.htm

1921年生まれのコロンは36歳のときに写真の情熱にとりつかれ、バリオ・チノを毎週末歩きまわった。ファインダーはのぞかず、片手にさげたカメラのシャッターを切る。覗き見趣味の隠し撮りとは正反対に、慎ましい性格のコロンが求めたのは、人々の豊かな生の息吹をとらえることだった。構図はあとから決めるが、美的な演出を避けたコロンのリアリズムは、ブラッサイやウォルカー・エヴァンスの作風に比べられる。

コロンのとらえた娼婦、男、子ども、老人、犬たちが醸し出す情景は、それぞれがドラマの一場面のようにきわだった生気に満ちている。被写体は貧しい地区に住む、多くは通常の美の基準から外れた人々だが、彼らの表情と動作には尊厳がある。ドレスの布地の陰影から浮き出る女性のお尻やお腹、胸や腰、脚の線は、エロティックでありながら、少しも卑猥ではない。当時、保守的なカトリックの道徳と反動的なフランコ体制下のバルセロナのブルジョワにとって、バリオ・チノは悪の巣だった。そこで生きる人々には、世の偏見に対抗する生命力と誇りが備わっていたのだろう。

消費社会にどっぷりつかって欲望にふりまわされると、人はえてして自己と自分の像を相対化できなくなるかもしれない。そして、テクノロジーの発達によって手軽に撮影できるようになればなるほど、「視線」は失われていくような気がする。

❖2006年9月12日
サッカー場に行けた子どもたち

長い夏休みが終わり、先週から学校が始まった。新学年の初めは、文房具と備品を揃えたり、スポーツクラブなど学校以外の活動に登録したりするのに大わらわになる時期だが、この日記で何度も話題にしたサン・パピエ(非合法滞在の外国人)の家族の多くは、受難の日々を送っている。通学の途中で逮捕されないようにと、親の代わりに子どもを学校に送っていくなどの、市民たちの支援行動もつづいている。8月17日にスクワットから強制退去させられた人々のうち、いまだ大勢がカシャン市の提供した体育館で生活している(「サン・パピエの軌跡」2006年7月25日先見日記その他参照)。国境なき教育網(RESF)によると、サルコジ内相の通達による特別合法化は、懸念したとおり場所や担当者によって対処がまちまちで、拒否が続出している。ナイジェリアに強制送還された高校生のように、それぞれが悲惨なドラマだ。http://www.educationsansfrontieres.org/article.php3?id_article=1029

サン・パピエの運動は10年前、女優のエマニュエル・ベアールをはじめ、ショービジネスや文化界で名のよく知られている人々の支援を受けたが、今回も女優のジョジアーヌ・バラスコや元陸上選手のステファンヌ・ディアガナらはサン・パピエのもとに赴き、彼らの直面している非人間的な状況をメディアに訴えた。この国では伝統といえるほど頻繁に、文化人やアーティストが政治や社会の時事問題に関わって行動を起こす。

さて、9月6日はサッカーのユーロ杯(UEFAヨーロッパ選手権)の予選がパリ郊外サン=ドニの競技場で行われ、フランスのナショナルチームはイタリアと再び対戦した。ワールドカップの決勝戦で、ジダンの頭突きによる退場後に惜しくもPKで優勝を逃したあとだから、フランス中がこの試合を待っていた。で、リリアン・テュラムとパトリック・ヴィエラはこの試合の招待券を70枚ほど、カシャン市の体育館で仮住まいをつづける人々にプレゼントしたのだ。県議会が競技場往復用にバスを調達し、不便で不安な毎日をおくる子どもたちはその晩、しばしエキサイティングな時間をすごすことができた。この雪辱戦でフランスチームはなかなかのファイトを見せ、やっと選抜されたゴールキーパーのグレゴリー・クペや、ワールドカップではあまり出番のなかったシドネー・ゴヴーも活躍した。

ところが、極右政党フロン・ナショナルのル・ペンと並んで国粋主義を政治理念に掲げるフィリップ・ド・ヴィリエ(「フランスのための運動党」党首)は、テュラムとヴィエラの行為を批判し、「彼らは億万長者なのだから、サン・パピエたちを自分の家に宿泊させればいい」などと皮肉った。昨年秋、郊外の若者たちに対するサルコジ内相の暴言をテュラムが批判したときも、サルコジは「金持ちサッカー選手より自分のほうが郊外の状況をよく知っている」と反駁したが、テュラムをはじめナショナルチームの選手たちの多くは貧しい郊外で育ち(テュラムは海外県アンティルのグアドループ島出身、シングルマザーの母親は彼が9歳のときにパリ郊外に移住)、差別を体験してきている。コマーシャル出演などお金儲けに走る多くのスポーツ選手やタレントの中で、移民系の若者たちやサン・パピエのような「弱者」の存在を気づかい、批判を恐れずに政治的な発言をするテュラムは光っているとわたしは感じるが、一部の政治家にはそれがたまらなく苦々しいようだ。

一方で、保守陣営の最も有力な大統領候補であるサルコジは、ショービジネス界の有名人を自分の宣伝に使って人気を集めようと必死だ。8月末の与党UMPの集会には、往年のフランス最大のロック歌手(今でも人気が高い)ジョニー・アリデーが出席した。ジョニー・アリデーは、高額の財産所有者に(所得税、不動産税に加えて)かかる税金を逃れるため、ベルギー国籍になった億万長者だ(移民に対して「フランスを愛していることを証明せよ」と要求するサルコジの論理からいえば、「非国民」的行為なのでは?)。この集会には、かつて警察を罵るラップを歌って若者たちに人気のあったドック・ジネコ(今は落ち目)もサルコジ支持者として登場し、「ラッパーって、サルコジと警察を目の敵にしてたんじゃないの?」と世間をぎょっとさせた。なんとも見苦しい「スペクタクル政治」の世の中になったものだ。

そういう背景もあったので、イタリアに対する勝利(3-1)は格別に嬉しかった。ユーロ杯の予選はまだ先が長いが、フランスチームにはけっこういい波動が感じられると期待しているのだけれど……。

❖2006年9月19日
「王様の口」

セーヌ河岸に今年の6月20日、非欧州(アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ)の芸術を展示するケ・ブランリー美術館がオープンした。トロカデロにあった人類博物館とポルト・ドレにあったアフリカ・オセアニア美術館のコレクションに、新たに購入されたオブジェを加えて約30万点を収蔵したものだ。ヨーロッパ以外のアートに脚光をあて、植民地主義的な視点を捨てて「文化と文明どうしの対話」をめざそうというすばらしい目的でつくられた。これについてはいろいろ議論があるので、また別の機会に書くことにするが、最近この美術館の劇場におもしろいインスタレーションが展示されたので、今回はその話をしよう。

ベナンのアーティスト、ロミュアルド・アズメの「王様の口」という作品だ。8月末まで東京の森美術館でやっていた『アフリカ・リミックス』展を見た人は、入口に置かれたポリタンクを積み上げた彼の作品を覚えているかもしれない。今回彼は、この石油を入れるポリタンクをお面に仕立てて、304個床に並べた。全体が船の形になっている。お面(ポリタンク)はかつて、アフリカからアメリカ大陸やハイチに連れていかれた奴隷を表している(先頭の2つはそれぞれベナンの王と植民地時代の摂政を表す)。お面にはそれぞれの奴隷の出身を示す小物(ビーズの腕飾りや人形などの呪物、羽根)があしらわれ、作品のまわりを歩くと場所によってコーヒー、香辛料、糞尿などの匂いがする。そして、奴隷の名前の連読と、ベナンの5つの言語で嘆きの言葉が聞こえてくる。

この作品は、奴隷船の断面図を描いた19世紀の版画にインスピレーションを得たもので、「王様の口(La bouche du roi)」は奴隷船の出航した場所の名前(ポルトガル語で「河口」を表す「a boca do rio」をフランス人がまちがって翻訳したもの)だ。でも、今回のインスタレーションで来仏したアズメは言う。「これは過去の奴隷制ではなく、現代のアフリカの現実を表したものだ。石油という新たな富の奴隷となり、何も考えずに生きる現代への問いかけだ」

ベナンでは石油が高いため、隣国のナイジェリア(石油産出国)から運び屋がポリタンクで運んできた石油を、国民のほとんどが利用している。モビレット(原つき自転車)で山のようにタンクを運ぶ途中、石油に引火して命を落とす者もいるが、貧しい人々はこの「密売買」に頼らなくては生活できない。アズメは、これを「密売買」と呼ぶのは適切でないと言う。権力者たちは汚職・収賄によって富を貪っているが、庶民は命がけで石油の入ったポリタンクを運ばなければ生きていけないのだ。アズメはポリタンクを現代の奴隷になぞらえ、彼らが大量に船に乗せられ、地上では繋がれて石油産地に連れていかれる様子、モビレットで、あるいは女性の頭上で運ばれる様子、道に捨てられてトラックに潰されるシーンなどを撮影し、7分のビデオにした。ポリタンクを並べた船の上方にかかった画面に、このビデオが流れる。

「これは現代の奴隷制のメタファーだ。現代の奴隷はでも、自分がどこから来たかを忘れてしまった。だから僕は、自分のルーツに立ち戻ってお面をつくろうと思ったんだ」とアズメは語る。この作品には、単なる「廃品利用」のアートを越えた迫力がある。ベナンの日常生活で必需品のポリタンクが、歴史と記憶のこめられたお面となって蘇る。

歴史と伝統文化をよりどころにした創作によって、人々を搾取する腐敗した現代の「王様たち」を摘発し、「奴隷」の意味について問いかけるアズメのアプローチは、独創的で力強い。「奴隷を売って潤った現地の権力者なしには、奴隷制は成り立たなかった」という認識に立ち、アフリカの状況はまずアフリカ人の力で改善しなくてはならないと、彼は語る。「僕はずっとアフリカで生きてきた。アフリカの文化を継承し、自分らしく生きつづけることで、豊かさをもたらすことができる」というアズメは、アフリカの移動芸術家、アレの継承者を自負し、未来へのエネルギッシュな可能性に満ちている。

オープニングのとき、この美術館の「おしゃれ」すぎる外観・展示法と、かっこよすぎる謳い文句がちょっと気になったのだが、このアズメのインスタレーションのような企画や、真に対話が生まれるような努力を積み重ねていけば、おもしろい場所になっていくかもしれない。美術館のレヴィ=ストロース劇場ではスペクタクルのほか、一般向けの無料公開講義をはじめ、さまざまな活動が企画されているので楽しみだ。

「王様の口」ケ・ブランリー美術館 2006年11月12日まで
http://www.quaibranly.fr/index.php?id=992

❖2006年9月26日
「罰せよ監視せよ」社会はいやだ

先々週、サン=ドニの競技場にサッカーのフランス対イタリア戦を見に行けたサン・パピエ(非合法滞在の外国人)たちの話をしたが、それはやはり束の間の息抜きにすぎなかった。

9月18日、サルコジ内相はテレビの番組で、6月13日に各県知事にあてて通達した特別措置によって、最終的に6924人が合法化されたと発表した。国境なき教育網(RESF)とシマッド(キリスト教系の移民・難民援助組織CIMADE)はすぐに、「人道的措置」を装った内相の偽善を批判した。というのも、各県庁は8月13日までサン・パピエたちの申請を受けつけたが、合計33538件にも及ぶ申請書類を審査するために、申請の多い県では各自への呼び出しが10月末までつづく予定なのだ。つまり、まだ審査が終わっていない人々がいるのに、合法化は6924人で打ち止め、と宣言したことになる。7月24日、サルコジ内相は(何の根拠もなしに)66000人という数字を挙げ、以後は、通達で出された条件を満たしていても滞在許可を拒否されるケースが続出した。ということは結局、ばかばかしくも早い者勝ちだったらしい。サン・パピエを援助する市民や団体は「役所はサルコジの決めたクオータにしたがうために、審査のまねごとをしたにすぎない。希望をもたせてサン・パピエたちをもてあそんだ」と憤慨する。おまけに、住所や雇用者などすべての情報を提出したのだから、拒否された人々は逮捕されやすくなるだろう。(http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3226,36-814456@51-755939,0.html

移民の中でも最も弱い立場にあるサン・パピエを重罪人のように扱うサルコジのビジョンは、他の政策にも一貫している。そのビジョンとは、機会の不平等という現実に目をつぶって、すべてを個人の能力・意志・責任に還元するネオリベラリズム(弱肉強食)を原理に、人々の監視と管理を強め、法律や規格・基準から外れる者を犯罪者や失格者として排除し、厳しく罰する社会観だ。前にも書いたように、社会福祉が後退して雇用や生活が不安定になればなるほど、心身の病気や自殺、犯罪などが増えて不安感はさらに増長されるだろうから、「治安」の強化でそれを埋め合わせ、統治者にとって管理しやすいハイテク全体主義的な社会が望まれるというわけだ。(「今なぜ共謀罪と教育基本法改正なのか」2006年5月23日先見日記参照)

保守政権に移行した2002年以降、刑法や外国人の入国・滞在規制法などが再三改正されて厳しくなった。この9月には、元老院(上院)で「非行予防法案」が可決されたが(国民議会はまだ)、それについてはまたの機会に書くことにする。というのも、9月20日にル・モンド紙がすっぱぬいたパリ郊外セーヌ・サン=ドニ県知事の報告書をめぐって、またもやサルコジ内相が爆弾発言をしたのだ。

セーヌ・サン=ドニは、いわゆる貧しい郊外団地地区をたくさん抱える県だ。知事はこの報告書の中で、今年に入ってさらに犯罪数が増えた状況を摘発し、警官の人数と経験不足を訴えるとともに、この県のボビニー市にある少年裁判所の判決が甘すぎると批判した。http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3226,36-814397,0.html)

サルコジ内相はこの批判にとびつき、ボビニー少年裁判所の判事たちの放任主義と任務放棄を激しく非難した。彼にはこれまでも、大臣の立場にありながら司法を批判した前例があるが、今度ばかりは当事者のボビニーの判事たちだけでなく、パリ高等法院の首席検察官や破毀院(はきいん:最高裁判所)の首席裁判長など、めったに公的な発言をしない高い地位にある裁判官が「内相の発言は司法の独立(三権分立)を侵す」と厳しい口調で抗議した。破毀院首席裁判長との面会に応じたシラク大統領は、司法の独立を尊重する共和国の原則を強調したが、サルコジは前言を翻さず、「自分の発言が正しいことはフランス人みんながわかっている」と、国民戦線党首ル・ペンさながらの大衆迎合的な態度を崩さない。

セーヌ・サン=ドニ県の犯罪増加については、統計を細かく分析してから論議すべきだろうが、ボビニー少年裁判所に対する2005年の司法視察機関による調査は、未成年の実刑判決の増加を指摘している。(http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3226,36-815679@51-814401,0.html

この少年裁判所は予算不足で容疑者用のトイレもなく、書記の数が足りないため、判決文書を送るのに数カ月を要するという。問題はだから、「放任主義」より機構が十分に機能しない点だろう。それに、「未成年の非行は野放し状態」が事実だとすれば、それは2002年から保守内閣の主要大臣であるサルコジの治安政策(住民と接する「近接警察」の廃止やNPOへの助成金削減)の結果(失敗)をも表しているはずだ。

そもそも、法を侵した未成年を刑務所に送れば犯罪は減るという考えは、はたして現実に即しているだろうか? 刑務所はすでに定員オーバーの超満員で人道的な環境とは言い難いし(フランスの刑務所の状況はEUからも批判されている)、刑務所が拘留者を更正させずに犯罪を生むメカニズムは、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』(1975年)などで分析されている。

「罰せよ監視せよ」を政策の軸にすえるサルコジの社会ビジョンには以前から危惧を感じていたが、民主主義の三権分立原則を一抹のためらいもなく攻撃した今回の言動によって、彼は越えてはならない一線を越えたようだ。でも直後の世論調査では、サルコジの思うつぼにはまって、「一部の判事を批判したのは正しい」が54%もいた。人々の不安感をかきたてるこの戦略によって、ル・ペンが第二次投票に進出した02年の大統領選の二の舞が演じられる危険はさらに高まったかもしれない。

return