神武夏子公式ホームページ
Kotake Natsuko's MusicLogDiscographyspecialcontactリンク
Official Blog

フランス通信(2006年10月)

❖2006年10月3日
もうひとつのフランス解放史

今年のカンヌ映画祭は、女優賞がペドロ・アルモドバル監督の『Volver』の主要キャストを演じた女優全員、男優賞はラシッド・ブシャレブ監督の『Indigenes』の主要キャスト男優全員という異例のグループ受賞だった。『Indigenes』のマグレブ(北アフリカ)系フランス人4人を含む5人の俳優に栄誉を与えたのは、大賞パルム・ドールをケン・ローチやマイケル・ムーアなど、ブッシュ大統領の政治と世界観を批判する監督に授与したのと同様、カンヌ映画祭独特の政治的な配慮だろう。純粋な映画の観点から外れた要素に審査が左右されることについては批判もできるが、今のフランスや世界の状況から見ると、『Indigenes』の受賞は社会的にも象徴的にも大きな意義があると思う。(http://www.indigenes-lefilm.com/

「Indigenes」とは「土着民」、「原住民」のことだ。かっこつきにしたのは、このフランス語が18世紀末以降、植民地の先住民を呼ぶのに使われた差別的な表現だからだ(語源のラテン語やもとの意味に、侮蔑的なニュアンスはない)。この映画は第二次大戦中、ナチス・ドイツの占領下にあったフランス本土の解放に貢献した北アフリカの現地人兵士たちを描いたもので、差別的表現をわざわざタイトルにしたのは、当時彼らが解放軍内で受けた差別を示すためだけでなく、現在にいたるまで、元植民地先住民の兵士に対して国家が不当な扱いをして、フランス史の中で彼らの存在が語られなかったことを告発する意味もこめられている。

ドイツ・イタリアの枢軸軍に対する戦いはアフリカでも繰り広げられた。フランス解放軍の最初の勝利は1941年、ルクレール将軍が率いるアフリカの植民地軍によってもたらされ、42年からはマグレブとブラックアフリカの植民地の人々が大勢動員された。44年のフランス軍55万人のうち、ブラックアフリカの兵士が8万人、マグレブ3国の兵士は40万人以上(そのうち23万人以上が「土着民」)に及ぶ。44年6月の連合軍ノルマンディー上陸は映画『史上最大の作戦』などでおなじみだが、それに先だつ南イタリア戦、8月からの南仏上陸軍に参加して45年5月の終戦まで戦いつづけたフランス軍兵士の多くが、植民地に住むフランス人(ピエ・ノワール)と先住民だったのだ。

ところが、第二次大戦を描いた映画や解放の写真にマグレバンや黒人の姿はなく、彼らの貢献は歴史と人々の記憶から忘れられた。そして、元植民地先住民の退役軍人の恩給は、各国の独立過程で59年の金額に凍結された。2002年に少し改善されたが、現在約8万人いる23国籍に及ぶ元植民地先住民の退役軍人の恩給額は、フランス人退役軍人のそれよりずっと低かった(国によって異なるが3分の1以下)。

『Indigenes』が封切られた9月27日、シラク大統領はこの不平等に終止符をうち、元植民地先住民にも同額(年に450ユーロ)を支給することを決定した。これは95年から彼の大統領選の公約に入っていたが、この映画をプライベート映写会で観て心を打たれ、実行を決心したものらしい。すでに亡くなった人も多いし40年以上分の差額は払われないが、諺にあるように「遅くてもしないよりはマシ」の復権と言えよう。

監督のラシッド・ブシャレブは、工場で働くためにアルジェリアからフランスに来た移民の子だ。この映画は、自分の親や祖父母の生きた歴史を知りたいという願望から生まれた、と彼は語る。植民地時代、戦争、戦後の再建とつづくフランスの歴史の中に、自分たち移民系フランス人の軌跡を刻むことによって、フランス人としてのアイデンティティを明確に認識したかったのだという。

映画の主人公のひとりを演じるジャメル・ドゥブーズは、今この国で最も人気のある俳優のひとりだが(数年前大ヒットした『アメリ』にも出ている)、『Indigenes』の共同製作者となって資金繰りに貢献した。彼はパリ郊外で生まれた「ブール」(アラブ系移民2世)で、ブシャレブに出会う前は、自分の祖父が第二次大戦に参戦したことを知らなかったという。以来、この映画をつくることを自分の使命のように感じ、各地で行われた試写会にも、監督と共に参加した。移民系の若い世代に「フランスと共通の歴史があることを、君たちに理解してほしいんだ」とジャメル・ドゥブーズが語りかけるように、移民系の子どもたちのアイデンティティの形成はまず、これまで語られなかった歴史を知るところから始まるだろう。

むろん、『Indigenes』は劇映画だから複雑な史実がすべて正確に表されているわけではないが、忘れられた史実により多くの人の目を向けさせるいいきっかけになるのではないだろうか。

❖2006年10月10日
治安の演出

パリ南郊外にあるカシャン市のスクワットを力づくで追い出され、市が緊急措置として提供した体育館で不便な生活をつづけていたサン・パピエ(非合法滞在の外国人)を含む300人近くの人々に、ようやく別の仮住まいがあてがわれることになった。スクワット退去を命じたサルコジ内相は、「国家はこれで責任を果たした、あとは市が対処すればいい」と言って、住民や援助団体との交渉に応じなかったのだが、朝晩の冷えこみが厳しくなり、ハンストをつづけていた6人の健康が40日を越えて危険な状態に近づいてきたこともあり、いくつかのNPOの仲介をとおして10月5日、急に処置がとられた。8月17日のスクワット追放から実に7週間、死人が出るのではないかという危惧が高まっていた。

内務省が急に態度を変えたのは、前日大々的に行われた警察の行動が失敗したことも影響しているかもしれない。サルコジ内相はその10日ほど前にも、パリの郊外団地で警察による「手入れ」をしたばかりだった。その団地をパトロール中の警官を「待ち伏せて襲撃し」(警察側の発表)、重傷を負わせた容疑者の一斉検挙だ。テレビのニュースには、郊外団地のアパートに早朝、多数の警官が押し入る様子が流れた……なぜそんなシーンが撮影できたかというと、テレビやラジオ局、通信社などに前もって通報があったからだ。テレビ局の「やらせ」ではなくて、警察のオペレーションの「実況」演出である(ちなみに、「リベラシオン」紙のように政府に批判的な新聞には通報がなかった)。10月4日の早朝6時に行われたイヴリンヌ県ミュロー市の団地への手入れも、警官100人が出動し、約30人ものジャーナリストが5時半から現場に待機した。

ところが、この日の「収穫」は少なく(容疑者1名逮捕)、エラーが続出した。現場にいたジャーナリストが目撃したのは、事件と関係のない住民のアパートに武装した警官がドアを壊して踏み込み、室内を荒らし、子どもや家族に武器をつきつけるといった暴力的な光景だった。(http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3226,36-819648,0.html?xtor=RSS-3208

この情景にショックを受けたのか、「手入れ」の実況を繰り返してサルコジ内相の治安演出の片棒をかつぐことに嫌気がさしてきたのか、今回の「手入れ」はテレビのニュースや新聞では短くしか扱われず、「たくさんのカメラを同行した派手な警察のオペレーション」といったコメントがついた。国営地方放送フランス3局は、撮影中の別の局のクルーを撮影した「メイキング・オブ」を流したほどだ。国営のテレビ局とラジオ局については、「治安の話題ばかり過剰に報道して、内相の道具にされている」という批判がジャーナリストのあいだで高まっている。

誰が通報したかについては、内務省と警察の4つの組合すべてが自分ではないと主張している。警察の内部でも、「大勢のジャーナリストとテレビやラジオ局の車に現場をうろつかれたら、やりにくい」と批判が出ているが、いちばん被害を被るのは住民たちだ。ドアを壊され、暴力的に扱われてトラウマを受けた被害者に限らず、団地全体がテレビで後ろ指をさされるわけだから、警察に対する住民の反感は高まる。日頃から警察との関係が悪い若者たちに対しては、挑発しているようなものだ。昨年の秋のように、暴力が全国に波及するのを望んでいるのだろうか?

テレビ、ラジオのジャーナリストの中から「治安」の演出に対する批判が出てきたのは、少し明るい要素かもしれない。サルコジ内相は来年春の大統領選に向けて、悪化した治安の回復をキャンペーンの主要テーマに決めたようだが、2002年の大統領選キャンペーンではシラク大統領が治安の悪化を強調した。そして、多くのテレビ局が競ってこの話題を報道し、第一次投票の直前には「若者たちに暴行を受けた老人」の衝撃的な映像が繰り返しテレビのニュースで流れた。第一次投票の結果はご存知のとおり、治安の悪化を移民のせいにする国民戦線の党首ル・ペンが、第2位の得票を得た。投票に大きな影響を与えたといわれるこの事件の容疑者は、後に証拠不十分で無罪になり、真相を追求して調査をつづけたジャーナリストもいたが、実際に何が起きたのかは解明されなかった。明らかなのは、通信社AFPが「緊急を要しない話題」として発信した事件に民放が飛びついてスクープにしたてあげ、国営テレビも負けじと追随して2日間、それが一大ニュースとしてテレビに流れたことだ。

治安の問題について、原因の探求や対策の成果を詳しく調べた報道をせずに、単に人々の不安感をかきたてるような安易で無責任なアプローチはもういい加減やめてほしいが、さあこれからどうなるだろうか?

❖2006年10月17日
死刑廃止について

10月10日は世界死刑廃止デーだった。2001年6月にフランスのストラスブール市で催された第1回「死刑廃止のための国際会議」の宣言をもとに、02年ローマで設立された死刑廃止世界連盟(WCADP)が定めたもので、今年で4回目になる。日本では「フォーラム90」が連盟に参加しているほか、「監獄人権センター」「そばの会」なども死刑廃止のために活動している。(http://www.jca.apc.org/stop-shikei/
http://www.hrea.org/feature-events/world-day-against-death-penalty.php

アムネスティ・インターナショナルによれば、世界197か国のうち現在、すべての罪について死刑を廃止した国は88、普通法の犯罪に限って廃止した国は11、10年以上死刑を執行していない事実上の廃止国は30ある。合計129の廃止国に対して、死刑を認めている国は68。90年以降、40か国以上が廃止を決めた変遷を見ると、世界の大きな流れは死刑廃止へと向かっていることがわかる。アムネスティの調査では、05年に執行された死刑囚は2148人(確認された数字)。その94%が、多い順に中国、イラン、サウジアラビア、アメリカ合衆国の4か国に集中している。

ギロチン(ギヨチン)を発明した国フランスで死刑が廃止されたのは今から25年前、81年10月9日のことだ。死刑廃止のために闘ってきた弁護士、ロベール・バダンテールを法務大臣に抜擢したミッテラン大統領の左翼政権のもとで、何度も提案されながら通らなかった廃止法案がついに可決された。廃止論の歴史は古く、1791年の憲法制定議会のときからすでに論議されていた(その時点ではロベスピエールも廃止論者だった!)。このとき死刑はなくならなかったが、死刑囚の苦痛煩悶を避けるためにギロチンが使われるようになったのである。

19世紀には、『死刑囚最後の日』を書いたヴィクトル・ユーゴーをはじめ、多くの人が死刑の非人間性を強調して廃止を唱えたが、国会では毎回廃止案が否決された。「18世紀は拷問を廃止した。19世紀は死刑を廃止する」と言ったユーゴーの言葉は、残念ながら実現しなかったのだ。それどころか、20世紀にはふたつの大戦と植民地戦争のせいで、死刑執行数が増えたときさえある。死刑廃止25周年に際してインターネット展覧会を企画した歴史学者ジャン=クロード・ファルシーは、「社会に動乱の不安があると、死刑は反対派をはらいのけ、民衆の反逆を抑えるために有効だと考えられる」という。廃止論がさかんだったフランスで廃止に2世紀近くもかかったのは、大革命以来のたび重なる社会動乱のせいもあるらしい。(http://www.criminocorpus.cnrs.fr/article.php3?id_article=106

死刑廃止が実現した81年、世論調査ではフランス人の63%が死刑の続行に賛成していた。以後も、むごい幼児の殺人事件などが起きるたびに、一部の人々が死刑復活をもちだす。そこにあらわされているのは、法の裁きとは別の次元の復讐心や、「悪を抹殺したい」という心理だろう。後者について、25年前に当時のバダンテール法相が国会ですばらしい演説をしている。

「多くの人々は、殺人者がまた罪を繰り返すかもしれないと恐れています。殺人者を殺してしまえば、この恐怖は簡単にとり除ける。復讐ではなくて慎重・予防から死刑にするというこの概念は、抹殺する裁きです。抹殺する裁き、つまり殺す裁きを求める人々は、二重の確信をもっています。それはまず、世の中には完全に罪深い者がいる、つまり犯罪についてそれをおかした者には全面的に責任があるという確信。そして、この者は生かし、あの者は死ねと言えるほど、絶対に誤りのない裁きが存在するという確信です。しかし、地上に完全に罪深く、将来もまったく絶望的な人間はいないし、裁きは人間がするものだから、絶対に誤りがないとはいえません。したがって、倫理的に死刑を受け入れることはできないのです。私たちは、この偶然に左右される殺す裁き、不安と死の裁きを拒みます。なぜなら、それは裁きに反するもの、理性と人間性に対する感情と恐怖の勝利だからです」(抜粋/訳:筆者)

日本には現在、確定死刑囚が90人もいる。昨年はひとりの死刑が執行され、今年9月3日には病身・高齢の死刑囚が獄死した。死刑についての情報が公開されず、執行してから告知されるという民主主義国家では異例の状況がつづいている。

80年のフランス最後の死刑囚は、翌年ミッテラン大統領の恩赦を受け、2000年に釈放された。彼は今、中世史の研究者になっている。

❖2006年10月24日
教育と悪者探し

去年の暮れからフランスでは、「読み方の学習法(教え方)」についての論争が起きている。教育大臣のジル・ド・ロビアンが突如として、「グローバル法を廃止して、初めから音節法だけ使うように」と宣言したからだ。そう言われてもよくわからないだろうが、音節法というのはたとえば、papaを「p(ぺー)のあとにa(ア)がきたらパと読む」と、音節を分析的に認識させる教え方。グローバル法は、文の中で単語全体(パパ)を意味と同時に認識させるやり方のことだ。音節法はアルファベット言語の昔からの解読法であったのに対し、グローバル法は近代以降、とりわけ20世紀初頭の教育学研究によってもたらされた。

で、この教育大臣の発言に、小学校の先生や教育学者たちは唖然とした。というのも、純粋なグローバル法は今もうほとんど使われておらず、大多数の先生は音節法とグローバル法を折衷した「ミックス法」で教えているからだ。グローバル法がとり入れられた時代もあったが、この方法だけだと単語の構造を理解しないまま想像で読む癖がつくので、現場の先生たちは音節法とグローバル的なアプローチの両方を使った教え方を工夫している(教科書もミックス法のものがいちばん使われている)。2002年以降は、国のカリキュラムでも音節法の重要さが強調されているのだから、今になって、現状も知らずに現場を無視したこの発言はいったい何なの? と先生たちは驚いたのだ。

教育大臣はどうやら、しばらく前から吹き荒れている「昔流の教え方に戻せ」という逆行的思想を主張したかったらしい。「近頃の若者と子どもはろくに文章が読めない、綴りの間違えがひどい、学力も落ちた。すべて、自由な教育法、グローバル法で読み書きを習ったせいだ。昔のように音節法で厳しく教え込み、書き取りテストを頻繁にやれ」と。授業中に集中できない子どもが増え、読み書きがじゅうぶんに習得できないまま中学に進む子どもが多いのは事実だが、校内暴力から学力低下まで、学校の問題をすべて「68年世代がもたらした新しい自由な教育法」のせいにするのは、まったく視点がずれている。

「今の若者と子どもは昔に比べてちゃんと読み書きができなくなった」という印象は、フランスに限らず日本やどの先進国のおとなも抱いているのではないかと思うが、フランスについていえば「自分でものを考える」で書いたように、非識字率は年齢が上がるほど高くなる。つまり、旧式の音節法から落ちこぼれる子どもの割合は相当高かったわけだ。一方、小学校5年終了の段階で、読み書きの不自由な子どもが7%(部分的な不自由を含めると15%)いるという統計もあるので、小学校教育のあいだに「文字の解読」段階から「ある程度複雑な文章の読解」能力にすべての子が到達できない状況は、克服されていない。息子は今、中学の第5学級(日本の中学1年にあたる)だが、クラスには授業で扱う文学作品をすらすら読めず、書き取りで綴りをたくさん間違える子が大勢いる。

言語に対する関心と気配りの低下は、経済的・文化的に恵まれない環境の人に限らず、今や社会全体の傾向だ。それは、本を読んだり手紙を書いたりする習慣が廃れてきて、「綴りなんてどうでもいい。パソコンが修正してくれるし、(携帯)メールのようにてっとり早く書かなきゃやってられないよ」と思う人が多いからだろう。テレビやゲーム漬けになっている子どもたちの狭い言語体系を、どうやって学校で教える伝統の言語体系に「開く」かは、教育法のよしあしをはるかに超えた社会全体の課題ではないだろうか。とりわけ、初めて読み書きを習うとき、その子の頭にすでにたくさんの単語や文、そしてそれが意味する状況がインプットされていなければ、文字は何の意味ももたない。

小学校の教師連盟のサイトを見ていたら、1959年に書かれたセレスタン・フレネ(フレネ教育法の創立者)のテキストが載っていた。読み書き能力の低下や読字障害をグローバル法のせいにする風潮に対する反論だ。50年近くも前に、まったく同じ攻撃がなされていたことにびっくりしたが、これは実に興味深い事実をあらわしている。実際には徹底して行われたことのない教育概念に対して、事情を知らない人々は妄想を抱いて非難したがるものなのだ。日本でも「ゆとり」教育がすべての悪の元凶のように言われているが、教育法をスケープゴートにする政治家たち(親、メディア、おとな一般)は、学校をとりまく環境、つまり社会全体の問題に目をつぶって自らの責任を逃れている。本当に子どもたちの未来(つまり社会の未来)を心配していたら、そんな安易で短絡的な悪者探しの論理は出てこないはずなのだけれど。

❖2006年10月31日
「見えないフランス」の陳情書

去年の10月27日、パリ北東郊外のクリシー・スー・ボアで、警察の身分検査から逃れようとして変電所に隠れたふたりの少年が感電死した。この事件をきっかけに、まずパリ郊外で、つづいて全国各地に若者たちの集団暴力が波及し、車への放火や建物などの破壊が約3週間にわたって行われた。(昨年の日記「言葉の暴力、絶望の暴力」2006年11月8日付先見日記参照・「社会の亀裂」2006年11月18日付・「抵抗の時代」2006年11月22日付)この集団暴力は、都市の郊外などにある貧しい団地地区がいかに国から見捨てられ、豊かな社会生活から疎外されているかを露呈した。とりわけ、移民系を多く含む住民たちが、就職難や日常的な差別に苦しんでいる現実が指摘された。

若者たちの怒りは理解できるが、破壊は何も生まないどころか、ますます警察の対応を硬化させ、国民の反感をかうだけだ。状況を改善するために建設的な行動をしようと、集団暴力の起きた地域に住む市民からいくつかのイニシアチブが生まれた。その中のひとつ、クリシー・スー・ボアで発足した市民団体「アセ・ル・フ AC le feu」(「自由・平等・友愛・いっしょに・団結して」の会、「火はもうたくさん」と読める)は、去年の12月から今年にかけてフランス各地をマイクロバスで回り、120の市町村で2万に及ぶさまざまな住民の意見や批判、提案を収集した。1789年の全国三部会召集に向けて「陳情書」が作成された歴史にならい、「アセ・ル・フ」はこれを「陳情書」と名づけて、去る10月25日、国民議会に提出した。。(http://aclefeu.blogspot.com/

「アセ・ル・フ」の分析によると、この陳情書で人々の訴えや提案がいちばん多かったのは、雇用に関するもの。つづいてレイシズムの撤廃を求めるもの、住居難の訴え、もっと公平な司法を求める声があげられるという。そのあとに多かった警察との関係については、サルコジが言うような治安の悪化ではなく、警察に頻繁に身分検査を受け、侮辱的に扱われることへの不満が多く語られた。

「アセ・ル・フ」のマイクロバスは、昨年車が燃えた町だけでなく農村部にも赴いたが、彼らと会って「陳情書」に書き込んだ住民たちがフランス国民の代表的な意見を述べているかどうかについては、反論もあるだろう。いわゆる世論調査(統計学的に「代表的」住民のサンプルを抽出し、電話やインターネットで質問に答えさせ、意見の傾向を算出する)とはちがって、政治家がふだん会いに行かない人々のところに行って、意見を訊いたのだ。でも、考えてみると、まだ候補者の正式な出馬が決まっていないのに、来年の大統領選挙にむけて政治家の人気投票を再三再四行い、人気の高いサルコジ内相と社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルのどちらを支持するかというような不毛な調査(このふたりが第二次選挙に残るかどうかはわからない)を繰り返す世論調査より、フランス革命直前に生まれた「陳情書」を現代に生かそうとしたこの試みは、よほど有益ではないだろうか。

ちなみに、世論調査には多額の費用がかかるが、質問の仕方によってかなり回答の傾向を操作できる上、質的な分析はほとんどなされない(というか、無理だろう)。おまけに、統計学の理論によれば量的な誤差は最小限におさえられるはずなのに、2002年の大統領選のときにはル・ペンへの支持率がまったく過小評価されていたし、今年のイタリアの総選挙でも誤差がひどかった。こうした選挙前の世論調査はメディアや政党が発注しているが、人々の実態をもっと正確に知るためには、別の形の調査が必要なのではないだろうか。

最近、『La France Invisible』(『見えないフランス』、ステファン・ボー、ジョゼフ・コンファヴルー、ジャッド・リンドガード監修、ラ・デクヴェルト出版)という本が出版された。649ページもの大書には、郊外の住民、臨時雇いや「見習い」にしか就けない人、囚人、サン・パピエ、身体障害者をはじめ、メディアが語らず自らの苦悩を代弁する組織をもたないさまざまな人々の言葉が記されている。この本は、2002年の大統領選でのル・ペンの得票率にショックを受けた社会学者、ジャーナリスト、作家など28人が、メディアや政治家からは「見えない」人々の実態に目を向け、耳を傾けようとした試みから生まれた。疎外感にさいなまれ、「見える」フランスに違和感をもつのは、貧しい人や移民系だけではないと、前書きでステファン・ボーは述べている。

「陳情書」やこの本に綴られた人々の言葉に、大統領選の候補者たちはどれだけ耳を傾け、彼らを見ようとするだろうか?

return