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フランス6人組について

❖6人組の誕生から消滅まで

この6人の作曲家たちを「ロシア5人組」になぞって「フランス6人組」=「Le Groupe Des Six」と名づけたのは、評論家のアンリ・コレ(1885-1951)である。1920年1月の「コメディア」誌に彼はこの名称で6人を紹介し、本人たちの知らぬ間に「6人組」は結成された。共通の友人で詩人のジャン・コクトー(1889-1963)は、「ル・コック」という機関誌を作って音楽論を展開し、「6人組」の宣伝をする。

しかし6人に共通の美学や趣味があったわけではなく、いつも集まっていた仲のよい友達にすぎなかった。後日、ガヴォッティとの対談(1950)中で、オネゲルは「仲間たちは6人だけではなく、イベール・マニュエル・デルヴァンクール・ヴィエネルらもいたのに」また、「ジャン・コクトーは我々を同じ花瓶に入れたがったので迷惑だった」など、苦笑混じりに述べているが、無名の作曲家たちにとって、世に知られ、雑誌に紹介され、外国から招待がくることは悪いことではなかった。

彼らは作品を持ち寄って、ピアノ小品集「6人組のアルバム」(1920)を出版し、いくつかの演奏会をし、デュレが抜けた後に、ジャン・コクトーの台本によるバレー「エッフェル塔の花嫁花婿」に5人で音楽をつける。

しかし程なく自然消滅する。「6人組はなくなった。独立した6人の音楽家が残った。」というエリック・サティの言葉(1922)やラディゲの死の直後の、ジャン・コクトーのマリタンへの手紙(1923)が、解散の宣言のようだと、ヴィルタール女史は言う。この辺の事情は、神武夏子の妹(飛幡祐規=たかはたゆうき)が翻訳したヴィルタール女史の労作「フランス6人組」(1989・晶文社)に詳しい。

❖友情

6人組消滅後も、彼らの暖かい友情は終生続いたようだ。これは素晴らしいことだ。さらに素晴らしいのは、その後6人が独立し、各自が、良い仕事を続けたこと。(既にミヨー・オネゲル・プーランクは音楽史上揺るがぬ評価を受けている。近年特に、プーランクの人気は高く、タイユフェールの再評価もすすんでいる。)そして、何より彼らの音楽が今日も変わらぬ新鮮な魅力を持って我々に語りかけてくるだろう。たぶんその魅力は20世紀初頭のパリという街の特殊な状況と無関係ではない

❖20世紀初頭のパリ

1914年に始まった第一次世界大戦は予想外に長引き、大きな被害と物の窮乏をもたらした。一方、人々の生活をみると、電気を始め様々な科学的発見が、生活様式を大きく変えた。例えば、電気の普及は、暗かった夜をにぎやかな不夜城に変えた。また、パリに地下鉄ができ、自家用車が普及し、電信・電話・映画・蓄音機などの発達もパリを活気づける。

戦争後しばらく、パリの若者たちは、「戦後の大バカンス」(タイユフェール)が来たように、毎日「祝祭と狂乱の日々」を楽しんだようだ。交通手段や様々な娯楽の進歩、女性たちの解放、戦争が去り、すべてが良くなるという希望の中で、多少はしゃぎすぎの、この時期の「6人組」の作品から聞こえてくるのは、幸せな時代の若者の音楽だ。それらは幾分、60年代のザ・ビートルズの音楽を私に連想させる。

ドビュッシーやプルーストの美しい世界は、やや過去の特権階級の匂いがする。孤高な天才の芸術だ。それに対して、「6人組」の音楽は、普通の若者たちのメッセージ。それは、Grand(偉大)でないかもしれないがBon(良質の)Musicien(音楽家たち)の等身大の音楽。

❖諸芸術の流れと6人組の位置

パリは「芸術の都」と言われるが、特にこの時期は、豊かで、様々な傾向へ移り変わりも早い。美術の方では、19世紀のさいごの25年で、印象派、象徴派、そして20世紀にはいって、フォービズム、キュビズムといわれる様々な傾向が実り多い作品群をもたらした。戦中から戦後にかけては、ダダイズム、シュールレアリズムと形を変えるが、それは「未来派」とともにあらゆるジャンルの型を破る。

音楽の分野では、フランス人たちが自分の言葉で良い作品を生み出すのは、19世紀も終わりの20年くらいである。ドイツ、特にワーグナーの影響力は絶大で、その呪いを解き放ったのが、たぶん、1902年初演のドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」だろう。

20世紀のはじめの10年間は、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルたちが、それぞれの道の上で多くの成果をあげる。1910年代では、何と言ってもストラビンスキーの「春の祭典」(1914年)エリック・サティの「パラード」(1917)のスキャンダラスな初演が大きい。

特に、ジャン・コクトーの台本にエリック・サティが音楽をつけ、ピカソが舞台美術を担当した「パラード」は彼らに大きな影響を与えた。「ル・コック」やその前の「雄鳥とアルルカン」という雑誌でジャン・コクトーがドイツロマン派やフランスのドビッシー派を批判するとき、彼にとって新しい音楽の理想はエリック・サティだった。

無駄な装飾を捨てた簡素で率直な表現、明晰な構造、民衆的な笑いと知恵、日常性に根ざした芸術と、何よりもフランス的な音楽をという理想の美学をジャン・コクトーはエリック・サティに認め、さらに「6人組」に期待したようだ。

6人(正しくは、オネゲルを除く5人)はエリック・サティの強い影響を受けた。そして「パラード」の後は彼らの出番である。6人とも作風も趣味も違うが、単純で率直、明晰で機知に富み日常性に根ざすなど多くの点で共通している。

その後時代は変わり、バルトークやシェーンベルクの実権が続く。さらに、第二次世界大戦後のミュージックセリエル、コンクレート、偶然性の音楽で現代音楽はすすみ、普通の聴衆はおいていかれる。

一方「6人組」はわかりやすい旋律(メロス)や人間性(ユマニテ)を失わず、民衆と共にある。彼らは「偉大」でも「革新的」でもないのですぐ忘れ去られた。深刻でまじめな音楽が良いとされる時代に、彼らの音楽は、あまりに軽薄に見えた。

しかし、21世紀に入った今、日常性に根ざした彼らの音楽を思い出すことは、良いことかもしれない。音と人の関係はずいぶん多様化してきた。深刻でまじめな音楽だけが良い音楽なのか?音楽とは何か?という問いとともに。

個々の作曲家について

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フランシス・プーランク Francis Poulenc(1899-1963)

オーリックと同じ年でグループの中で最年少である。5才でピアノを始め、15才で名ピアニスト、ヴィエニスに師事。サティやオーリックを知る。作曲は独学だが18才の時の「黒人狂詩曲」で鮮烈なデビューをする。6人組に加わった後、名教師ケクランについて本格的に作曲を学ぶ。バレエ「牡鹿」(1924)の成功から、名実共に一流作曲家としての活動を始める。30年代は名歌集ベルナックの伴奏者として活動。歌曲作曲者として一層活躍する。ヌオペラや宗教曲、晩年は室内楽に次々と傑作を書いた。彼のピアノ曲も小品が多いが味わい深い。中でも15曲の即興曲は最も重要な物の一つだ。幼時からピアノに親しみ、教師リカルドヴェニエスの紹介で良い友人達に恵まれた後は独学のまま作曲をし、6人組に加わった。

3つのオペラ、幾つかのバレエ、協奏曲、特に管を含む室内楽、質量共にすばらしい歌曲、そして後期の感動的な合唱曲、宗教曲等、傑作ぞろいで皆に愛されている。10代の現代曲好きの早熟な天才、6人組のダダ的な精神と、調性や旋律を絶対に捨てない保守性、晩年の声楽曲等の深い宗教性の共存がプーランクの魅力かもしれない。

ピアノ曲には大作はないが、彼らしい珠玉の小品は沢山ある。以下曲目を紹介する。

*「3つの常道曲」(1918)

最初期の作品。単純明快で、独学の作者の才能を感じさせる。「間奏曲変イ長調(1943年作)」は、ショパンの様に美しい歌が出て幾つかの要素が加わり発展していく。

*「3つの小品」(1918-28)

1.第1曲「パストラル」は1918年作。第2曲「トッカータ」、第3曲「讃歌」は1928年作。ユージェル版では、2~3曲が入れかわっているが、その方が、すわりが良い様な気もする。「パストラル」は19歳、多分兵役に行っている頃の作。クラヴサン風な装飾音とフランス序曲風な符点リズムによるやや悲しげな曲。「讃歌」は力強い堂々とした主部と華やかな中間部から成る、やや彼らしくない曲。「トッカータ」は生き生きとした16音符の流れと美しい歌のある素敵な曲だ。

2.「3つの小品(1928)」。20代のプーランク。牝鹿(1924)で成功し、素敵なトリオ(1926)や田園協奏曲(1928)等の大作はあるが、まだ歌曲やビアノ曲が多い。特に、ビアノ曲では「ナポリ」「バストレル」「ノヴレット」等佳作が続く。この曲も全く違う様式の3曲を組み合わせた魅力的な曲集だ。1918年に書かれたという「バストレル」は、神秘的呪術和声の上に魔法の笛のような歌が聞こえる。「クローソア」の様に豪華に始まる「賛歌は」中間部でロ一マン派風に発展するが、独自の和声や気まぐれな構成も彼らしい。並行5度で始まる「トッカータ」は無窮動。

技巧的で特に見事だ。後半一時静まりイ短調の美しい節が聴こえ、華やかに終わる。

*「即興曲」

15曲ある「即興曲」は生涯のいろいろな時期に書かれ、自由で気張らず美しい。華麗で協奏曲のように始まる「第1番」と優しいワルツのような「第2番」は1932年作。端正で人気の高い「第7番」は1933年作だ。

1~12の12曲は(1932-47)年、13~15の3曲は(1958-59)年に書かれた。皆1-2分程度の小品だが和声、旋律、書式等細部まで磨かれ、若々しく親しみ易く、完成度が高い。

「第2番」は優しいワルツの様で旋律的。「第7番」は親しみ易いソナチネの様に始まるが大きな発展を見せる。

間奏曲は1932年に1曲(ニ短調)、1934年に2曲(ハ長調、変ニ長調)、1943年に1曲(変イ長調)残されている。ハ長調の曲は粗野で荒々しい第1主題と、ト長調の美しい旋律的な第2主題から成る。前者も再現するが主に発展するのは後者だ。変イ長調の曲はフィナーレの舟歌を思わせる素敵な6拍子の歌が続く。旋律のしなやかさとみずみずしい和声の冒険は彼独自のものだろう。

*プーランク「8つの夜想曲より」1、4、7、8

「8つの夜想曲(1932-38)」は即興曲集と並んで代表的な曲集。

彼の夜想曲は夜を越えて自由に飛翔する。

*「フランス組曲(1935)」

16世紀の作曲家クロードジュルヴェーズの作品に基づく舞曲集で管弦楽版もある。自国の古典を大切にする6人組の精神が生きている。華やかな「第1曲ブルゴーニュのフランル」はトランペットや太鼓音がする祭典の音楽。「第2曲パヴァーヌ」は美しいコラールの様。「第6曲シシリエンヌ」は静かで優しく歌う。

「シューベルト讃」と書かれた「第12番」(1959)は速く、ビートが効いたレントラーの様。「第13番」(1958)美しいイ単調のうた。第15番」は「E・ピアフ讃」でシャンソンの様式だが、共に感動的な歌である。

*「ナゼルの夜会」(1936)

1.彼の叔母のサロンに集まって来る人々の描写が組曲を構成する。華やかな「前奏曲」自由な「カデンツァ」につづき、スケルツォ風の「別の極み」。6/8の歌が発展する「手の上の心臓」。悲しみの美しい歌が綿々と歌われる「不幸の味」が録音されている。

J.de.ブリュノフの絵本により、作曲した音楽物語「子象ババールのお話」(1940-45)もわかりやすく美しい音楽で有名になった。2つの断片が聴かれる。狩人の鉄砲で母を殺され街へ逃げて来て、親切なお金持ちのおばあさんに会い感謝する場面は、素直な変イ長調のワルツで、幸福感にあふれている。もう1曲はババールがいとこの2頭の像に会い、一緒に森へ帰る時、おばあさんが淋しがる場面。嬰ヘ長調の音楽で、単純な中に素晴らしい和声と旋律が楽しみを表現している。

2.ナゼルの夜会(1936)。1930年頃、フランスの田舎ナゼルに長期滞在し、夜毎にサロンで彼のビアノを中心に小演奏会がおこなわれ、その時即興的に書かれた物をもとに後にまとめられた。

前奏曲、8つの変奏曲、カデンツァ、終曲の11曲からなるが、8つの変奏曲は、当時ビアノのまわりに集まった友人達の「肖像画」ということだ。8曲には「分別ざかり」「手の上の心」「らい落さと慎重さ」「思考の続き」「口説きの魅力」「自己満足」「不幸の味」「老いの予言」等の副題がついている。昔ヴェルサイユのルイ14世の宮廷での優れた肖像画家Fクープランの組曲(オルドル〈振り仮名〉)の伝説を思い出させる。プーランクはこうしたお洒落なサロン音楽の大家である。前奏曲は期待に心を弾ませる様な素敵なワルツ。きらぴやかなカデンツァに8曲の見事な肖像画」(変奏曲)が続く。重々しいカデンツァの後、早く明るい終曲が夜会をしめくくる。

*「間奏曲 変イ長調」

1943年、ドイツ軍占領下で作曲。ショパン風な優しい美しい歌で始まり、即興風に色々な歌が挿入された後に、又戻ってくる。初期の乾いたユーモアとは違ったあたたかい曲だ。遠い転調や構成法に彼の避けていたフォーレの面影も感じられる。

*「主題と変奏」1951年作

作者52歳。名作「スターバートマーテル」が各地で初演され、「クリスマスの4つのモテット」に着手した年の作品。晩年の彼には宗教作品が増え、ビアノ曲は減るのだが、この曲も7年ぶりのビアノ曲で作風の変化も興味深い。

主題は英国風、聖歌の様に真面目でりりしく親しみやすい。11の変奏曲は性格変奏で、流れの一貫性よりむしろ気まぐれで意外性の魅力が彼らしい。楽しげにはしゃぐ(第1)、高貴で堂々とした符点の(第2)、美しい田園曲(第3)、皮肉っぽく激しい(第4)、静かな物想い(第5)、軽いスケルッツォ(第6)、「パパール」風の悲歌(第7)、遠くとぶ様な(第8)、プラームス風の気まぐれ(第9)、単純な和音だけの(第10)そして華やかな終曲(第11)、彼「苦手」だったフォーレの主題と変奏曲を想わせる。

*フルート・ソナタ(1957)

ランバルと作曲者自身により初演された彼の代表作とも言える作品。40年代のVnやVcの為のソナタに続き、57年にこのPlソナタ。そして死の前年1962年にobソナタ、aソナタと、彼はソロとpfのソナタを書き続けた。これらはトビュッシーの晩年のソナタを受け継ぎ、フランスバロツクの精神にまで戻っている。この歌曲の大家は、言葉のないより繊細で抽象的な歌曲の様に、ソリストを歌わせ、様々な表情を見せる事に成功した。書法は一見気まぐれだが実は緻密である。第1楽章は32分音符の特徴的なPlの主題が発展する。中間部はややゆっくりしたサラバンド風の音楽。第2楽章は全曲中の白眉で、Plに歌い続けられる歌は、悲胸のヒロインのアリアの様に、単純だが犬変美しい。終曲は田園風の活気に満ちた舞曲。若々しい20代のプーランクが戻ってくる。Plも楽しくはしゃぎまわるが、終わり近く、1楽章の優しい中間部が回想されるのも素敵である。

アルチュール・オネゲル Arthur Honegger(1892-1955)

ミヨーと同じ年で、2人は親友だが、趣味も気質も正反対であった。音楽上の気質としてオーリックの対極にいる。

ル・アーヴル生まれのスイス人。チューリッヒの音楽院で学んだ後、パリ音楽院で学ぶ。彼の中では、バッハやベートーヴェン達、ドイツ音楽への深い敬愛と、ドビュッシーやラヴェル等フランス音楽への賛美が両立している。人格者、深い信仰を持ったクリスチャンの一方、スポーツ好き、車好きの明るい人だった。

「6人組への参加は友情によるもの」でコクトーの音楽観と正反対に見えるが、以外に影響を受けている気もする。祖国スイスへの愛情やバッハ、ベートーヴェン達のドイツ音楽への敬愛がフランスやフランス音楽への讃美と共存している。オラトリオ、オペラ、交響曲等に感動的な作品を多く残した。ピアノ曲は数は少ないが、美しいピアニストの妻が大半を初演している。

*「ラヴェル讃」

「3つの小品」の2曲目で1915年11月作曲。モダルの美しい和声や線のからみがアルカイックなラヴェルへの讃歌のようだ。「7つの小品」は1919-20年の作だがカサドジュに捧げられた「第7曲」は、激しい曲で「パシフィック231」や交響曲のアレグロ楽章を想起させる。「ショパンの思いで」は晩年1947年に書かれた。3部形式で、透明な単純な処方の曲だが作者のショパンへの愛情が感じられる。

*「7つの小品」(1919-1920)

作者の最も成功したピアノ作品であると、H・アルブレクは絶賛した。各曲は短いが、個性的で生きていて、まとまりと魅力がある。自然な旋律の流れが美しい第1曲。中音域のクラスターが素敵な第2曲。ゆっくりしたノスタルジックなタンゴのリズムの第5曲。管弦楽的でやや粗野で、半音階とリズムが魅力的な第6曲。華麗なストラヴィンスキー的な祭りの曲、第7曲、と、聴く者を飽きさせない。

*「ロマンドの音楽帳」より第1、4曲

ロマンドの音楽帳(1921-1923)は、5曲の違った性格の小品から成り、スイス・ロマンドの友人達に捧げられている。

第1曲「アリス・エコフェへ…」3拍子の静かで大変美しい曲。

第4曲「ポール・ペプルへ…」力強い決然とした復調の曲。

ピアニストの美しいオネゲル夫人が初演した。

ジェルメンヌ・タイユフェール Germaine Tailleferre(1892-1983)

6人組の中の紅一点。5歳の頃から作曲を始め、両親の反対を押し切って、パリ音楽院で書式、伴奏法、作曲等を学び、多くの賞を得る。在学中、オーリックやミヨー、オネゲルらと友達になり、サティに紹介され、6人組に入る。友人ドローネーやピカソらの絵画に惹かれ、自ら絵筆をとる。コクトーは、彼女を「耳のローランサン」と呼んだが、彼女の音楽には、女性特有の優しさ、無邪気な素直さと共に、色彩的な感覚の豊かさも感じられる。

2度の結婚と離婚で、様々な経験も積み、晩年は子供たちの教育にも力を入れた。結婚後の一時期、作品数は減るが、晩年まで様々な分野に多くの曲を残した。作風は徐々に変わるが、彼女の作品は常に、自然で新鮮で明晰で、女性特有の優しい感性を失わない。邦訳も出た「回想録」は驚くべき豊かな交友録、不幸な2度の結婚等、波乱多い人生と女性特有の視点を伝えている。近年再評価もすすみ、いろいろな曲が聴けるだろう。

*「ロマンス」(1924)

メンデルスゾーン風な優しく美しい曲で、和声の繊細な色彩が彼女らしい。

「ロマンス」(1924)珍しい小品。バレエ「鳥商人」や「ピアノ協奏曲」の頃、創作力旺盛な時期の曲。単純で美しいイ長調の歌が、展開的中間部の後に戻ってくる。メンデルスゾーン的書法の中で、キラリと光る和声法や無駄のない語り口は彼女の魅力だろう。

*「シシリエンヌ」(1928)

やや骨太の美しい曲。後者は最初の夫となったアメリカ人画家バートンへ捧げられている。

ルイ・デュレ Louis Durey(1888-1979)

パリジャン。19歳でドビュッシーの「ペレアス」をみて音楽家になる決意をした。スコラカントルムで学び、サン・ルキエに支師事。6人組に加わるが「ルコック」が尊敬するラヴェルを批判するため、グループから離れたと言われる。後に社会主義者になり、共産党の「ユマニテ」紙や民衆音楽連盟で働く。歌曲、合唱曲、カンタータなど、一般の人に分かりやすい音楽を書いた。

*「6人組のアルバム(1920)」に寄せた「無言歌」

地味だがほのぼのとした暖かさがある。素敵な洒落た和音に彩られるが旋律はわかりやすく暖かい歌である。

*1968年出版の「10のバスク地方の歌」

素朴な優しい味わいは変わっていない。第一曲「朝の星」も素朴な歌だが、和声が何とも美しい。第八曲「マドレーヌ夫人」はト長調、陽気でおしゃべりで働き者の夫人の肖像。

作曲年代は不明だが、内容の平明さから晩年(60年代)の作に想われる。(1.朝の里。2.求婚。3.サン・ジャン・ド・リュズの令嬢を。4.白い鳩。5.スール地方。6.働き者の奥さん。7.おやすみ、可愛い坊や。8.マドレーヌ夫人。9.私はブルネットと言われる。10.ゲルニカの村。)の10曲から成る。バスク地方(スペイン国境に近い村)の既存の民謡に基づいていると思われるが、もっと皆に知られてよい、わかりやすく美しい小品集だ。

ダリウス・ミヨー Darius Milhaud(1892-1974)

南仏・エクサンプロヴァンス生まれのユダヤ系フランス人。良い意味で職人(アルチザン)である。博識で確かな技術(メチエ)、常に良い仕事をする。作品数の多さ、分野の広さも驚嘆だが、常に新鮮で生きた音楽を書く。旋律的でリズムも生きていて多調整を愛用し、対位法、楽器法、構成も優れている。

音楽家の両親を持ち、幼少より音楽を始め、エクスで後にパリ音楽院でヴァイオリンを学ぶ。パリ音楽院での修行後、政治家クローデルの秘書としてブラジルで過ごし(1917-18)、帰国後、6人組に参加して、指導的役割を果たした。帰国後勢力的に活動をするが、生来の大らかさ(歌謡性)、勤勉さからくる職人的作曲技法の高さ、多調整の発見、豊かな対位法、タンゴやジャズの影響による強烈なリズム感等が特徴で、500曲近い魅力的な音楽を量産した。その後、82歳で亡くなるまで、フランスとアメリカを中心に積極的な活動を続けた巨人である。

*ピアノ曲集「春(第一集)、op.25」

パリ音楽院在学中の策だ。第一曲(1915)、流れるような横の線のからみと多朝的和声、よく響く配置、すがすがしい感性の曲だ。

*「ブラジルの郷愁」(1920-21)op.67

彼のブラジル滞在が生み出した名作。タンゴのリズムを使っているが、旋律はオリジナルで口調の魅力が生きている。「ガベア」重厚で、華麗で、官能的。「コルコバードは旋律的しなやかだ。

*「フラテリーニのタンゴ」op.57c

親しみやすい旋律、復調的和声、そして生き生きしたリズムを持つ。コクトーの台本によるバレー「屋根の上の牡牛」(1919)のなかの最も有名な部分で、管弦楽でもよく演奏される。リオのカーニバルを念頭に置き南米音楽のいろいろな要素を用いて、作られたすばらしい曲だ。

生来の大らかさ(歌謡性)、勤勉さからくる職人的作曲技法の高さ、多調整の発見、豊かな対位法、タンゴやジャズの影響による強烈なリズム感等が特徴で、500曲近い魅力的な音楽を量産した。

*「ボヴァリー夫人のアルバム」OP.128

彼の作品には6本の映画音楽も見出せる。J.ルノアール監督の映画「ボヴァリー夫人」(1933)にミヨーは26曲の音楽をつけ(OP.128)、そのうち17曲をピアノ用に編曲した「ボヴァリー夫人のアルバム」(OP.128B)と「3つのワルツ」(OP.128C)を出版した。

主人公エンマの内面のドラマを描く各場面にミヨーは素敵な音楽をつけたが、筋を追わずとも十分楽しめるピアノ小品集でもある。17曲、各曲には副題がある。

1(エンマ)、2(田園曲)、3(悲しみ)、5(夢)、7(ロマンス)、10(聖ユベール)、11(ため息)、12(林の中)、13(散歩)、15(悲しみ)、16(舟歌)、17(最後のつづり)

*「ボヴァリー夫人」より3つのワルツ(op128c)

1933年作。J・ルノワール監督による同名の映画につけた彼の音楽のうち、3曲のワルツを出版したものだが、神武夏子のCDでは1番2番が聞かれる。1番はややショパン風、2番はドビュッシー風。優雅で品があり、確かなメチエを感じさせる。

華やかな第1曲(変ロ調)、静かな第2曲(変ト調)半音階が特徴的な第3曲(ニ調)と違った性格を持つが、わかりやすくお洒落な小品である。

*「3つのラグカプリス」

多作家で死の前年まで作曲を続けたミヨーにはピアノ曲も多い。「3つのラグカプリス」OP.78は1922年6人組時代の若々しく祝祭的な小品集だ。ジャズに熱中し、その技法をとりいれた「世界の創造」の前年。「スカラムーシュ」の余韻もきこえる。

管弦楽の編曲説もあるが、ピアノできいても多彩な音がきこえてくる。

*「世界の創造」(1923)OP.81

彼の17曲のバレエのうちの4番目で最も有名な曲だ。スウェーデンバレエが初演、サンドラールが筋を作り、レジェが衣装と舞台を担当した。ハーレムのジャズの様式をまねた17人の独奏者による原曲を、今夜の演奏では舞台の大きさを考えてやや小人数に削った。Saxの美しい旋律による序曲。ジャズ的主題のフーガ(動物達や*木の登場)の優しい音楽。欲望の踊り。そして序曲を回想するぼんやりとした結末。世界は始まったばかりである。

ジョルジュ・オーリック Jeorges Auric(1899-1983)

南仏生まれ。モンペリエとパリ音楽院、更にスコラカントルムで作曲技法を身につけた早熟な少年は、コクトーやサティら友人達に恵まれ15歳で作曲家デビュー。6人組の中で最も若いが、最も6人組らしい作曲家だった。20年代にはディアギレフのロシアバレエのために曲を書いていたが、30年代からは多くの映画音楽を手がける。著作権協会会長やオペラ座総監督なども務めるが、晩年まで作曲を続けた。

30歳前後までのユーモアーあふれる旋律的で明晰な作風、更に50歳頃までの荒々しいモダニズム(ピアノソナタ(1931)あたりから作風が変わり、長い模索の時期(この時期多くの映画音楽を手がける)がある。1949年の「フェードル」で自分の語法を再発見する。そして晩年は若い世代から影響を受けた思調と作風を変えるが、純音楽的作品はなかなか聞く機会がないのが残念である。

*「アデュー・ニューヨーク」

1920年に発表された「アデュー・ニューヨーク」は「フォックス・トロット」の副題を持ち、管弦楽版もある。依頼者で被献呈者のコクトーは「フォックス・トロットの肖像画だ。」と述べ、ピアニストのコルトーは「ナイトクラブの曲目を冷静に模倣した単純な模造品だ。」と評した。模倣は精巧で和声も色彩豊かである。楽しく、ノリが良く、単刀直入で、若き6人組の夢と美学が感じられる。

*「乙女の湖」

1934年M・アレグレ監督の同名の映画につけた音楽で、彼はそのうち3曲をピアノ曲として出版したが、その1曲目「レントラー」が録音されている。内容は数曲のワルツをつないでいく音楽だが、明確な旋律と和声の骨組みに近代的付加音がアクセントをつける素敵な曲。

*「9つの小品」

1947年出版。わかりやすく彼特有のユーモアーが魅力だ。

*「第2曲無言歌」

両手に交互に歌われる美しい歌。

*「第3ワルツ」

速く生き生きと大変穏やかなワルツ。「第6曲シシリエンヌ」憂いに満ちた、お洒落な半音階的和声が意外な転調を導く。

*「イマジネⅤ」

色々な編成によるイマジネⅠ~Ⅵ(1968-76)はその証で、デュティーユにささげられたイマジネⅤはピアノソロ用で(Vn.と小アンサンブル用のⅥと同じく)1976年の作品。多分、最後の作品群だ。トリルを多用し点描風に音を散らしていく色彩的作品で77歳と思えない若々しさにあふれている。

 

※このページの記述は作曲家・山口博史先生、および妹・飛幡祐規に協力いただきました。

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