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フランス通信(2006年5月)

❖2006年5月2日
国境なき教育網

一難去ってまた一難。今度はフランス、サルコジ内相発案の移民規制をさらに厳しくする法案が議会にかけられる。共謀罪、教育基本法改悪など、戦前を思わせる反動的な法案がつぎつぎとつくられそうな日本も危ない状況だけれど(今ならまだ止められる、抗議しよう。参考1参考2参考3)、CPE撤回に喜んでいる場合ではないようだ。

サルコジは2003年に既に、外国人に対する規制を強化する法律をつくっているが、今度は「移民の選択」というコンセプトを打ち出した。高資格のエンジニアなどには来てほしいが、第三世界の貧しい移民はいらないという考え方だ。滞在許可をもつ外国人の家族呼び寄せの条件をさらに厳しくする(高収入で広い住居が必要)など、これまで当然と考えられていた「家族といっしょに住む権利」を制限するため、キリスト教関係者は一致して反対をよびかけた。宗教者に限らず、「フランスの発展に役立たない外国人は拒否するなどという功利主義は、とんでもない」と批判の声が上がった。そもそも移民は歴史的に、戦争ではフランスのために血を流し、道路や住宅を建設し、炭坑や工場で働いて経済発展を支えてきたのだ。今でも、低賃金で3Kの仕事をしているのは大多数移民だ。その貢献を無視して、外国人への疑惑をさらに煽るような法案をサルコジがつくるのは、政治ジャーナリストたちによれば「移民は自分たちの職を奪い、社会福祉を貪る」という極右のデマゴギーにおもねて、来年の大統領選で極右に投票する層をつかみたいからだという。

新法案ではまた、合法的に10年滞在すれば10年間の居住者証が与えられ、不法滞在でも10年の居住を証明すれば合法化された制度が廃止される。後者については「不法滞在なのだから当然だ」と思う人も多いかもしれないが、去年、「ブランディーヌの傷(2005年5月24日付先見日記参照)」や「EUの壁(2005年10月18日付)」で書いたように、第三世界の戦乱や貧窮から逃れようとヨーロッパに命がけでやってくる亡命希望者や経済難民は、帰れと命じられても帰れない状況にある。年間6万件以上の国外退去令のうち、8割は執行されない。移民法が厳しくなれば、許可証のない「サン・パピエ」(直訳すれば「書類なし」)と呼ばれる不法滞在者が増えるだけだ。許可証なしに闇で働いて生きていくのは、並大抵のことではない。10年滞在による合法化は、サン・パピエたちが非人間的な暮らしから逃れられる狭き門になっていた。サルコジ流の功利主義・実用主義的に考えても、10年もサン・パピエの境遇で生き延びられる生命力の強い人は「フランスの役に立つ」人材だと思うのだけれど……。

で、人口・移民局によると、労働人口のうち外国人の割合は5.5% で、約14万人の合法入国者のうち10万強がフランス人の家族だ(2004年)。亡命権を得られたのは4184人にすぎないから、今でもじゅうぶんフランスへの移住は狭き門なのだ。少数の移民をさらに「選択」することより、議論すべきは既に国内にいる移民、そして移民系フランス人のインテグレーションなのに、この法案はそれをますます難しくしてしまう。

移民と亡命者の権利を擁護する団体GISTIをはじめ、多くの市民団体は「移民の使い捨て反対」を掲げたデモや署名運動をよびかけてサルコジ法案に抗議しているが、近年傑出した活動をつづける「国境なき教育網(RESF)」のことをちょっと紹介しよう。フランスの学校には、サン・パピエの子どもたちも通っているが(居住権のある家族を頼って入国しても、滞在許可を得られない場合がある)、行政・警察は、親と共に彼らを国外追放するために逮捕しに来たり、彼らが18歳で成人するや否や国外退去令を発したりする。この事態に心を痛めた教員、父母、クラスメートたちが団結して当事者の滞在許可を要求し、必要とあれば子どもを「かくまう」運動が「国境なき教育網」だ。郊外のスタン市のある学校では3月、600人の高校生と50人以上のおとなが当事者の県庁への呼び出しに同行した。今学年が終わる6月30日には、約1000人の若者が国外追放の危険に晒されている。国境なき教育網では、「私たちは法を犯してでも彼らを庇護する」と宣言する署名運動を始め、既に約14000人(5月3日現在)以上が署名した。「民主主義国家でも不当な法律がつくられることは、歴史が示している。私たちの名のもとに卑劣な行為がなされることを許してはならない」という理念には、市民として生きる意味の心髄があらわされていると思いませんか?
http://www.educationsansfrontieres.org/article.php3?id_article=24

❖2006年5月9日
ワールドカップの悪い噂

5月9日は「ヨーロッパの日」だそうで、市庁舎前広場にEU25か国のアーティストが創作した25の星が設置された。去年の今頃はEU憲法条約の国民投票を前にして、さかんに議論が交わされていたが、フランスの政治機構は今、ヨーロッパのことなどふっとんだ感じの混乱状態だ。サルコジ内相ほか大物政治家数名を財界スキャンダルにおとし入れようとした偽造書類たれ込みの件で、首相や大統領が国の諜報機関を濫用した疑いが発覚し、大騒ぎになっている。それが本当だったら、内閣更迭どころか大統領辞任に値するウォーターゲート級の事件だと思うのだが、ド・ヴィルパン首相とシラク大統領は、なにがなんでも現在の権力の座にとどまろうという姿勢だ。30年来最悪の政府と前に書いたが、シラク政権断末魔の叫びと言うべきかもしれない(でも辞任しないだろうな)。

そんな醜態を書く気にもなれないので、1か月後に迫ったワールドカップの話でもしよう。IOC(国際オリンピック委員会)の収賄システムを暴いたイギリス人ジャーナリスト、アンドリュー・ジェニングス(邦訳:『オリンピックの汚れた貴族』サイエンティスト社、ヴィヴ・シムソンとの共著『黒い輪』光文社)が、今度はワールドカップ開催組織のFIFA(国際サッカー連盟)の収賄システムや収益の不正分配などを暴いた『ファウル!』という本を上梓した。ヨーロッパ数か国で発刊されたが、ブラッター連盟長の本国、FIFAの本拠地スイスでは発禁になり、ワールドカップの開催国ドイツでは出版社がつかなったという。オリンピックと同じで、開催国(都市)は多額の金(市民の税金)を使ってイベントに貢献するが、大部分の収益をスポンサーと主催組織の一部のメンバーに貪られてしまうという、まことに忌まわしい現実が描かれているらしい
www.playthegame.org/upload/andrew_jennings_-_hiding_the_bribes.pdf
これについてはいつか、専門の佐山一郎さんにでも書いてもらうことにして、最近メールでまわってきた「買春はスポーツではない」という署名運動を紹介しよう。

ドイツは2002年に売春を合法化したが、ワールドカップに際して4万人もの女性が中央・東ヨーロッパから性サービス用に「輸入」されると予想されているため、既成の合法施設ではまかないきれないと、ベルリンの競技場の隣に売春施設がつくられた。コンドーム、シャワー・駐車場完備の「パフォーマンス・ボックス」と称する専用小屋が3000平米の敷地に立ち並ぶ。そこで、「女性売買反対同盟(CATW)」というNGOがキャンペーンを始めたものだ(http://catwepetition.ouvaton.org/php/index.php
ヨーロッパ開催のワールドカップ用だから、9か国語の署名運動である。欧州議会では4月にスウェーデン(売春禁止国)の議員がこの問題をとりあげて、具体的な対策を迫った。欧州議会は3月15日に「スポーツ・イベント時の強制売春」予防をよびかける決議文を採択したが、真剣に対策が打たれているとはいいがたいからだ。アムネスティー・インターナショナルも4月26日に声明を出している。
http://web.amnesty.org/library/index/engACT770082006?open&of=eng-373

問題はとりわけ、ほとんどの「売春婦」がマフィアによって貧しい国から連れてこられることだ(ウェイトレスの職だよとか言われて……何かを思い出しませんか?)。サルコジ流には「移民の選択、季節労働」とか言われてしまうのかもしれないが、ワールドカップが終わったあと彼女たちはどうなるのだろう?

日本のおとなしくお行儀のいい(とヨーロッパからは見える)サポーターにはぴんとこないかもしれないが、サッカーの周辺にはフーリガンや国粋主義、人種差別の問題がかなり目立つのですっきり楽しめない面がある(人種差別問題についてはまたの機会に書きます)。伝統的に男ばかりの集団が興奮して酒が入ると、たががはずれて罵言、暴力、差別意識が噴出するらしい。で、金と暴力、差別の次は性奴隷問題。FIFAをはじめサッカーの協会・組織は金儲けばかりに執心せずに、これら周辺の問題にちゃんと取り組むべきだ。サッカーが本当に好きならば。

❖2006年5月16日
長崎の被爆者とフランスの子どもたち

先週は貴重な体験をした。原爆被爆者の証言を出版し、体験を語り伝える活動をつづける「長崎の証言の会」代表の廣瀬方人さん(76歳)がフランスを訪れ、高校と小学校で証言した際に通訳として同席したのだ。

廣瀬さんら10人ほどの被爆者の証言と写真は、昨年秋にフランスで出版された『ヒロシマ・ナガサキ』という本の中に収録された。このたびは、2003年から子どものための平和と非暴力文化イベント「鯉のぼり:世界の子どもの日」を主催するパリの日仏文化センター(パリ日本文化会館とは別)での講演・原爆写真展を機に、被爆二世の太田千賀子さんと共に来仏した。フランスの若い人たちにぜひ被爆体験を話したいという廣瀬さんの要望を受けて、在仏アーティスト・アクティヴィストのコリン・コバヤシさんが学校訪問をアレンジした。4日間にパリ大学で3回、パリ郊外の高校で2回、パリ14区の小学校で1回講演するという強行スケジュールだったが、初めてフランスの若者・子どもたちと接する機会をもったふたりは、驚くほど精力的で笑顔をたやさなかった。

廣瀬さんは15歳のとき、爆心から4.8kmの場所で被爆した。屋内にいたので火傷は負わずにすんだが、爆心近くの工場で働いていた同居のいとこは帰ってこなかった。息子を探して毎日爆心近くを歩き回った彼のおばさんは、一週間後に高熱を出して倒れた。鼻と歯ぐきから血を流し、髪の毛がばらばら抜け、苦しみもだえながら息をひきとった。自分の体験から原爆の熱線、爆風、そして放射能の恐ろしさを具体的に語る廣瀬さんの話に、高校生も小学生もみんな真剣に聞き入った。

マニャンヴィル(パリから西へ約50km)のレオポルド・セダール・サンゴール高校では、2年生の4クラス約100人の生徒がこの歴史の特別授業に参加した。質疑応答の段になると、「本当に核武装をやめさせることができると思うか?」「アメリカとイランの今の動向をどう思うか?」など、現在の情勢に敏感な質問が出た。「どうして英語の教師になったのか? それは被爆体験と関係しているか?」という女生徒の質問に廣瀬さんは次のように答えた。「戦争が終わって平和がどんなに素晴らしいものかを痛いほど感じ、天皇のため、お国のために命を捧げることが最高の人生だと教え込まれたそれまでの教育に疑問を抱いた。終戦後初めて学んだデモクラシーという思想をもつアメリカと原爆を投下したアメリカとは、私の中では分離したまま結びつかない謎だった。英語を勉強してアメリカに行ってみたいと思った」。

ジャコメッティのアトリエだった建物に隣接する14区の小学校では、5年生26人が廣瀬さんの話を聞いた。ふだんは「難しいクラス」だそうで、最初に校長先生が「午前中も講演をしてきてお疲れだから、質問攻めで困らせないように」と釘をさしたほどだが、証言のあいだは一言のお喋りも出ず、担任の先生をびっくりさせる集中ぶりだった。放射能のせいで白血病になり、千羽鶴を折り終えずに死んだ生徒の話をしてから、廣瀬さんと太田さんは折り紙を配って、みんなに鶴の折り方を教えた。「これでいいの?」「わかんない、教えて!」と、しばし折り紙教室がつづいたあと質問を募ると、半数以上の子が手をあげた。

「どこで証言しても必ず出るのが、家族と私自身の苦しみについて、そしてアメリカを恨んでいないかという質問です。でも、小学生からこの質問が出たので驚きました」と廣瀬さんは言う。ヨーロッパの子どもは十数世紀にわたる戦乱、とりわけ二つの大戦を経てEUにいたった歴史に授業だけでなく本、映画、テレビなどでも触れているから、国どうしの対立に敏感なのだろう。廣瀬さんは、被爆者でさえほとんどアメリカへの憎しみを意識しなかったことを自分でも疑問に思い、その理由を考えたそうだ。「緊張と恐怖の連続だった戦争が終わって、ほっとしたことが大きかったのかもしれません」。

授業終了のブザーが鳴ると、子どもたちはわっと廣瀬さんを囲んでサインを求め、メールアドレスを訊いた子もいた。先生は、「きょうのお話は、この子たちの人生に大きな痕跡をとどめたにちがいありません。ぜひ来年も来てください」と廣瀬さんに感謝した。午前中に話を聞いた高校生の多くも、廣瀬さんに握手を求めてから教室を去っていった。核廃絶をよびかける廣瀬さんの信念はおそらく、核兵器をもつ国に生まれた若い彼らに大きなインパクトを与えたことだろう。

「フランスの子どもたちにエネルギーをもらいました」と喜ぶ廣瀬さんと太田さんは、日本ではもう原爆のことをあまり話題にしたがらなくなったと懸念する。原爆やナチスの収容所など、言葉で語ることが難しく、平常の生活からは想像できない人道に反する罪を、証言者は個人的な体験と表現によって、思考が可能な領域に近づけてくれる。原爆投下から61年、生存する被爆者は高齢に達している。核武装競争の広がる今こそいっそう彼らの証言を若い世代に伝えていきたい、伝えていかなければという確信を、廣瀬さんと太田さんに出会って新たにした。

長崎の証言の会:   
http://www.nagasaki-heiwa.org/n3/t1/AYUMI.HTML

❖2006年5月23日
今なぜ共謀罪と教育基本法改正なのか

3週間前に書いたフランスの移民規制をさらに厳しくする法案は、5月17日の国民議会で可決された。6月に元老院で討議され、続いて両院で再採決となるが、バカンス前でワールドカップに人々の関心がひきつけられる時期にあたるから、市民団体や一般市民の反対の声がどれほどメディアに反映されるか心配だ。法律というものは、一度できてしまうと撤廃するのがひどく難しいことは、、「過ぎ去らない過去」(2005年10月25日付)などでとりあげた例が示すとおり。悪法は、つくられる前に食い止めたほうがいい。

というのも、ここ何週間かわたしは強い危機感にかられて、日本の国会の様子と市民の動きを追っている。先週、いとうせいこうさんが「共謀罪に反対」(2005年10月25日付先見日記ご参照)の中で書いているように、教育基本法の改正(改悪)や共謀罪ように「ここにきて日本を全体主義化するような動きが絶えない」ことに、わたしたちはもっと目を注ぐべきではないだろうか。

共謀罪がそもそも、犯罪「予備」(準備行為あり)の処罰でさえ例外的な近代法の原則に反する特別な法律である点は、法学者などから指摘されている。「越境的組織犯罪条約」の締結にともなう国内法整備のためといいながら、そうした限定がないのも奇妙だ。「対象は共同の目的が罪を実行することにある団体に限られる」と今の段階で答弁しても、治安法とはそうやってつくられ、実際には一般に適用されることは、歴史が語っている。どんな行為が「共謀」の対象になるのか曖昧な点は、法務委員会理事会での「目配せ・まばたき」珍答弁を見てください。(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/78d2fd1d74fb79bf68b47489c4620219
折しも、テロ対策として、電話や電子メール通信記録、図書館で借りた本など個人的情報を公安機関がたやすく入手できる「愛国者法」という法律をつくったアメリカでは、NSA(国家安全保障局)が何百万人もの電話記録を入手していたことがUSA Today紙によって暴露され、問題になっている。「潔白なアメリカ人のプライバシーは侵害していない」とブッシュが言っても、「潔白な市民」が「テロリスト」の疑いをかけられる場合もあるのだl
http://www.aclu.org/safefree/nsaspying/25541prs20060511.html

そして怖いのは、いとうせいこうさんも言うように、想像が抑圧され、ありとあらゆる表現活動が制約されることだ。密告されるかもしれないから、対象とされる犯罪が619種もある共謀罪の容疑を受けないようにするには、人には絶対内心を明かさず、お喋りすると危ないのでもう人とはなるべくつきあわず、メールに書くことも気をつけて……という監視社会、人を見たら犯罪人と思えという疑心暗鬼の世の中になる。

教育基本法の改正案では、本来強制することのできない愛情という私的領域に踏み込んで、「わが国と郷土を愛する」を教育目標に掲げている。「愛国心」という価値観で子どもや教師、学校を行政が評価・監視・制裁する危険は、国旗国歌法で既に東京都が行っている教員処分を見れば明らかではないだろうか。

で、なぜ今、そんな法律をつくりたがっているかという点について、萱野稔人さんの考察を紹介しよう。国家と国民のあいだには、国民が税金を払うかわりに、国家は国民の安全、社会の治安だけでなく社会生活の保障(保険や福祉)を提供するというセキュリティ協定がある。ところがグローバル経済のもと、自由競争と「小さい国家」が主張されて雇用、医療、年金など生活のセキュリティが低下したために、国民の不安が広がっている。この不安は今、ナショナリズムの原動力となっている。そして、テロリストや仮想敵国、外国人を排斥することで不安を解消し、狭い意味でのセキュリティ=治安の強化を求めることで居心地の悪さを埋め合わそうとする方向に向かうのだ。

一方、国家はこのナショナリズムの要求を背景に、生活全般に関わる保障から治安・安全保障にセキュリティを限定できるようになる。グローバリゼーションとテクノロジー革命によって再編成されつつある世界に乗り遅れないためには、軍事力(産業)を整え、民営化によって責任はとらずに管理だけ強化するのが国家には都合がいい。軍事産業は不況に関係なく需要をつくれる。こうして、郵政民営化を唯一の争点に掲げた一見「自由な」政権と、「愛国心」や治安強化が結びつく(言葉足らずなので、『世界』6月号「国家の思惑と民衆の要求は、なぜ逆説的に一致するか」、『国家とはなにか』(萱野稔人著/以文社)を参照してください)。

5月18日、高齢者の負担が増える医療制度改革法案は衆院を通過し、外国人からの指紋採取を義務づける改正入管法は17日に成立した。アメリカでもフランスでも移民規制が強まり、「小さい国家」は市民の自由を縮小する刑法改革を行う。わたしたちは本当にこんな社会を望んでいるのだろうか? 子どもたちにこんな社会を残していいのだろうか?

❖2006年5月30日
リニューアルの罠

フランスではサルコジ内相が、若者の非行予防に関する新しい法案を準備している。不登校の生徒についての情報を学区(教育省の管轄)から市長が得られるようにするなど、行政の監視権限を強める内容のため、「そんなことになったら全体主義の前段階だ」と強い批判が出ている。法案には「家庭の義務」が強調され、「“操行0点”なんてつけるな」で触れた子どもの発達を示す「操行手帳」案も含まれるらしい。子どもの精神・心理ケアの領域に行政が入り込んで、治安を目的に管理する危険に反対して、精神科医、精神分析医、心理学者などが3月に声明文を発表し、署名者数はすでに18万人を超えた。法案が国会に提出されれば、市民の反対運動もさらに活発になるだろうが、ひとつひとつ、大規模な市民の行動によって基本的な権利を守っていかなければならない、なんときびしい世の中になってきたことだろう。世界のあちこちで今、国家は処罰をどんどん厳しく定め、監視を強めようとしている。

さて、日本では共謀罪と同時に教育基本法改正案の審議も進行中だ。「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」という立派な前文にも手を入れ、全面的に変更したがっているのはなぜなのか、改正を求める人々の本意を見抜くことが必要だろう。

「戦後60年もたったのだから新しい時代に合わせる」という名目は、リニューアル好きの日本人の感性にはうけるかもしれないが、基本法は憲法に準じて、よほどのこと(革命や新政体など大政変)がない限りつくり直さない種類の法、現代においては民主国家の根本である。何か追加したい、変更したいというなら、その項目について国民の意志を反映するかたちで討議するべきであって、全部書き直す必然性はないはずだ。21世紀にみあった変更という観点なら、国連のこどもの権利条約(日本は1994年に批准)を反映させ、日本に住む日本国籍をもたない子どもにも同じ教育の権利を保障するとか、性差別や民族差別などの撤廃を期するとか、人権および基本的自由の尊重、子どもの意見表明権を加えるとかの方向が考えられるが、全然そういう趣旨ではない。改正案でこの方向でつけ加えられたのは「障害のある者」の権利だけで、なんと現行基本法の第五条にある「男女共学」の条項が消えている。

教育基本法は、国民の教育の権利や機会の均等を保障し、国や地方公共団体の義務を制定したものだが、現行法と改正案の両方を読み比べるとよくわかる現行法と改正案の両方を読み比べるとよくわかることがある。改正案では、教育について、国家による指導的・統制的な内容を規定した記述が多くなっているのだ。たとえば、現行第二条の「教育の方針」のかわりに新設された「教育の目標」には、5項目にわたって「態度を養う」という表現で目標が定められている(この5番目に「伝統」や「わが国と郷土を愛する」が含まれる)。また、学校と家庭、地域住民の責任が記され、学校で教育を受ける者の「規律」や「意欲」といった細かい指示も入っている。基本法に「態度」やら何やら細々した規定が入るのは、変だ。

で、7条文が増え、項目もさらに追加された改正案から消えたのは、現行法第十条に記されている「国民全体に対して直接責任を負って行われるべき」という教育行政の義務だ。先週紹介した萱野稔人さんの考察のとおり、国家は責任を負わずに、ああしろこうしろと管理したがっているのだ。改正案(十六条)では教育行政は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」となっていて、別の法律をつくってそれに従えるように考慮されていることがわかる。ちなみに「別に法律で定めるところにより」という表現は、義務教育に関する条項(現行第四条、改正案第五条)にもつけ加えられていて、「九年」という規定は消えている。

ほかにも問題をとりあげたらきりがないが、学習指導要領の改訂の歴史や「新しい教育基本法を求める会」の要望と照らし合わせると、教育基本法の改正は、戦後、国民のものとなった教育を、国家の手に奪い返そうとしてきた1950年代以来の試みの到達点であることが見えてくる(『「心」と戦争』高橋哲哉著/晶文社参照)。国旗国歌法や「心のノート」の導入によって、すでに行政が子どもや教員の内心に足を踏み入れている今、教育基本法と憲法は、わたしたちの権利と自由を守る最後の砦だといえよう。ワールドカップ時の愛国心称揚にまぎれて、リニューアルされたナショナリズム教育の礎石が据えられないよう、できるかぎりのことをしようではないか。

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