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フランス通信(2006年7月)

❖2006年7月4日
夏の緊急体制

学校が終わってバカンスシーズンに入った。6月29日、リベラシオン紙の創刊メンバーのひとりで、ずっと社長を務めてきたセルジュ・ジュリーが辞職した。多額な赤字をかかえた同紙(「新聞の危機」2005年11月29日付先見日記参照)の経営方針について、筆頭株主ロスチャイルドと意見がくい違ったことが原因だ。33年のあいだ「ぬし」として、リベのスタイルと精神を体現してきた彼が去るのは、ひとつの時代の終わりを告げるようでさびしい。リベ特有の色気のあるユーモアと言葉遊びのセンス、批判精神、そして(いつもではないにしても)優れたルポが生き長らえてくれるといいのだが……。ロスチャイルドと「リベラシオン従業員民事会社」の暫定的共同経営が従業員の選挙によって決めたものの、先はよく見えない。

そんな危機的状況の中、リベラシオン紙は先週の月曜から土曜までの毎日、サン・パピエ(非合法滞在の外国人)の子どもたちの代父母になり、国境なき教育網(RESF)と共に彼らの合法化を訴えた。「国外追放しない」とサルコジ内相が保障した最後の週だったからだ(「代父母縁組」2006年6月6日付参照)。リュマニテ紙も6月22日付けの第一面に、「彼らを去らせないぞ」というタイトルを掲げた。二紙は子どもたちを擁護する政治的立場を明確にとったわけだが、新聞社としての態度を表明しないル・モンドやフィガロ、各地方紙、無料新聞、そしてイギリス、スペイン、ドイツなどの新聞も、サン・パピエの子どもたちを庇護する市民運動の広がりを報道した。国境なき教育網のよびかけた声明文には既に84500人以上(7月4日現在)が署名し、「子ども狩りに反対」と題した人権連盟(LDH)の声明文には、女優のイザベル・アジャーニ、演出家のパトリス・シェロー、作家のダニエル・ペナック、作曲家のピエール・ブーレーズなど著名人が名前を連ねた。

さて、対処を(少し)緩和すると譲歩したサルコジ内相は、6月13日に各県庁にあてて通達を出した。すると、この通達によって滞在許可がもらえると期待したサン・パピエたちが、県庁や担当の役所に続々とつめかけた。大勢の人が夜中から並んで待っているが、その期待はナイーブすぎるようだ。6つの合法化の条件の中には「フランス語の修得、子どもの学習のフォローなど、フランス社会に統合しようという明らかな意志を家族が示している」といった客観的な判断が微妙な項目も含まれているため、県や担当の役人によってさまざまな解釈と対処が行われることが予想されており、国境なき教育網は「曖昧な表現は合法化を拒否するための方便だ」と批判している。それに、条件を満たさない家族や、就学中に成人した18歳以上の若者の合法化の可能性は閉ざされ、審査で拒否された場合に請願する余地も残されていないため、国外追放になる人々の方が多いだろうと懸念する。

サルコジは書類審査が難航した場合の仲介者に、弁護士のアルノー・クラルスフェルドを任命し、書類提出の期限を2か月後の8月13日に定めた。金曜までにパリだけで1750のアポが与えられたが、サン・パピエの人々の数を政府は把握しておらず、国境なき教育網は1万人以上を推定しているから、役所の事務能力が極端に落ちるバカンス中にどのくらい書類審査や「仲介」ができるか、疑わしい。

7月1日にはパリとマルセイユでサン・パピエの子どもたち擁護のデモが行われた(パリのデモには警察発表で1万人、主催者側5万人が参加)。国境なき教育網とキリスト教系の移民・難民援助組織シマッドは、緊急時に備えてホットラインとメールアドレスを開設し、バカンス中の緊急体制があちこちで整えられている。

この運動は、ふだんはあまり政治に関与しない「ふつうの」人々が、自発的に行動を起こした点がめざましい。パリ20区に住む友人もそのひとりだが、自分の子と同じ学校に通う子どもが国外追放のような不当な扱いを受けることに、ショックを受けた人が多いのだ。「毎日顔を合わせる子どもにそんなことが起きるなんて……9月にその子がクラスに戻ってこなかったら、自分の子どもに何をどう説明しろというの?」と彼女は言う。これはとても基本的な問いかけではないだろうか。

ところで対ブラジル戦のフランスチーム、歓びがありましたね。サッカーの魔法が起きたすばらしいプレーだった。フランスじゅうがすっかりご機嫌になったところで、移民に対する態度をはじめ、寛容な精神がふくらむといいのだけれど。

❖2006年7月11日
テュラムの涙

ツール・ド・フランス(フランス一周自転車レース)がドーピング疑惑の選手抜きでスタートを切り、アルルでは国際写真祭(ランコントル)がオープンし、エクサン・プロヴァンス音楽祭はワーグナーの『ニーベルングの指輪』(ステファン・ブロンシュヴェグ演出、サイモン・ラトル指揮)で幕をあけ、アヴィニヨン国際演劇祭(60回目)も始まった。でも、これら夏の大イベントの影が薄くなるほど、先週のフランスはワールドカップにそまっていた。

なにしろ、試合に勝ったあと、50万人とかがシャンゼリゼに繰り出して大騒ぎするのだ。準決勝後の晩には興奮のうちに車の放火(これもフランスのスポーツ?)やら喧嘩やら悲惨な事故やらが起きて4人も死者が出たのだから、尋常でない。「いっしょに楽しく騒ぐ機会がほとんどないってことだよね。そのためにワールドカップを待たなければならないのは悲しいけれど、みんなで喜ぶのはいいことだ」とリリアン・テュラム選手が言ったように、サッカーの勝利に集団で酔いしれる心理の裏には、日頃の不満とフラストレーションがあるのだろう。

多様な出身・文化の選手たちの強さを讃えた「ブラック(黒人)・ブラン(白人)・ブール(アラブ)」の神話をもう誰も信じないとはいえ、決勝戦前にナショナルチーム、とりわけジダンの礼讃は、メディアと巷でヒステリーに達した。あんな結末になるとは……でもまあ、佐山さんが言うように適当な距離とアイロニーをもってサッカーと関わるという視点からいえば、フランスの敗け(とジダンの失墜)はひょっとしたら不運ではなくて、妙な国粋主義や自己満足を招かずにすんで、よかったのかもしれない。

だって挑発にのった方が負けだし、ジダンには似たような発作的行為でレッドカードを何度も受けた前歴があるのだから、イタリアの作戦勝ちだ。スポーツの商業化が度を越えて、英雄の絶大な社会的影響を無視できなくなってしまった今、どんな天才選手も純粋にスポーツの領域だけにとどまることはできない。サッカーは特に、社会的成功のシンボルとして無数の子どもに夢を与えるだけに、期待に応えることを要求される。でないとほら、「野蛮な」スポーツだなんて言われちゃうから。

とはいえ、予選通過さえ危ぶまれていたこのチームが、苦戦を重ねるうちに、だんだんと連帯の力を発揮していった過程は劇的だった。対トーゴ戦の救世主となったヴィエイラ、献身的に立ち回ったエレガントなアンリ、対スペイン戦で「復活」し、対ブラジル戦で神業を見せたジダン、ポルトガル戦の英雄テュラムと共に、コンスタントで強靱なディフェンスを支えたサニョルとガラス、決勝戦で身を粉にしたマケレレとマルダ、「年寄りチーム」フランスのエネルギッシュな「息子」リベリ……だからPKで優勝を逃したのは、なんとも残酷で悲劇的だった。でも技巧や体力・精神力だけでなく、ほんの些細なことや偶然の要素、運がからむからこそ、スポーツはおもしろいともいえる。

慈善事業には熱心だが政治的な発言は極力避けるジダン(2002年の大統領選でル・ペンが第二次投票に残ったときは例外)と異なり、テュラム(海外県アンティル出身)は移民系への差別問題などについて積極的に発言してきた。昨年秋にサルコジが郊外の若者たちを「屑、ごろつき」よばわりしたときにも反論し、アンリとヴィルトールが彼に賛同した。今大会中の記者会見でも、テュラムは独特のユーモアをまじえながら語った。「ル・ペンはナショナルチームに黒人が多すぎると言ったそうだけど、どう答えていいかわからないね。僕は黒人じゃないよ。フランス人にはブロンド(金髪)系と褐色系がいるけどね。ル・ペン氏はフランスの歴史をあんまりよく知らないのかな……」

ポルトガルに勝ったとき、「僕は34歳だけれど、10歳の子どもに戻ったみたいだ」と語ったテュラム。決勝のあとの彼の涙に、胸が痛んだ。

ジダンの「頭突き」についてはさまざまな推測・分析がなされているが、アヴィニヨン演劇祭からは演出家、アリアーヌ・ムヌーシュキンの声が届いた。「突然、ジダンがオセロに、マテラッツィはイヤーゴに見えたのです。そして、オセロの心のどこを傷つければきくかを知るイヤーゴが勝ってしまったのが、本当に残念でした。罠にはまらずに、あとで覚えていろよと言ってくれればよかったのに……。テュラムの涙もよくわかりました、あれはデズデモーナの世話役(エミリア)の涙だわ」

メディアの奉った神人から生身の人間に戻ったジダンとナショナルチームの帰還を、大勢の人が賞讃と感謝で迎えた。美しい幕切れ。さて、今度はUEFAヨーロッパ選手権の選抜予選で、フランスはイタリアと9月に対戦する。

❖2006年7月18日
ドレフュスの尊厳

中東の情勢がいちだんと危機的になってきたときに、ジダンの頭突きの話をつづけるのもなんだが、ちょっとだけつけ足しておきたい。

12日の彼自身の説明によると、マテラッツィの挑発は下劣な罵言でよく使われるような「ママンと姉」を侮辱したものらしいから、おいおい、子どもじゃないのに勘弁してよと言いたくなる。フランス人の過半数が彼の行為を「理解」し、多くが「許す」と世論調査で答え、「ああ、デュラスが生きていたらすばらしい文章を書いたのに。崇高、必然的に崇高……」などとコメントした文化人までいて、うんざりした(先週引用したムヌーシュキンとちがって、おそらくサッカーが好きではないのだろう)。試合中は喧嘩しないという基本ルールをプロが犯したら、アマチュアに与える悪影響ははかりしれない。それに、母親や姉妹を侮辱されて逆上する地中海沿岸域文化圏のメンタリティは、もういい加減捨ててほしい。女性は、男が暴力で「守る」神聖化された従属物ではないんだよ。そんな個人的な面目のほうが、チームみんなでたどりついた決勝戦より大事だったなんて。真の強さとは、足を踏まれても尊厳を失わない強靱な心をもつことじゃないだろうか。そして、レイシズムやホモセクシュアル差別、女性蔑視の罵言をサッカーから放逐する運動を起こせばいい。

ジダンは、口が達者でユーモアに富むというフランスらしさをもたない悲劇の英雄だったが、この国にはドラマを茶化すリラックスした人たちもいる。決勝戦の翌日、がっかりした3人の若者がセラピーのつもりで「頭突き」という歌をつくったら、途端に大レコード会社も飛びつくヒット曲となった。今夏は、この「ジダンはぶったよ」という曲で、フランスじゅうが踊りまくるのだそうだ。 http://www.laplagerecords.com/

さて、今年の7月13日は、ドレフュス大尉の名誉回復100周年にあたり、パリの士官学校で記念式典が行われた。ドレフュス事件は日本の歴史の教科書にも出てくるからご存知だろう。1894年、アルザス地方出身のユダヤ系士官ドレフュスはスパイ容疑をでっちあげられて有罪となり、罷免・流刑処分を受けた。無罪が認められて軍に復帰する1906年まで、フランスは彼の無罪を主張するドレフュス派と、有罪を信じる反ドレフュス派のまっぷたつに分かれ、激しい論争と対立がつづいた。新聞の第一面に載った「私は糾弾する」というエミール・ゾラの記事は有名だが、ラザール、ジョレス、ペギー、プルーストなど、当時の作家や知識人は活発にドレフュスを支援し、知識人が政治的態度を表明するこの国の伝統が確立した事件ともいえる。

反ドレフュス派には軍隊の名誉を守ろうとする王党派やカトリック教徒が多く、背景にはプロシア戦争敗北後の国粋主義と反ユダヤ主義の高まりがあった。共和国はこの事件で、無罪の人を犯人に仕立てた軍の不正な裁判の後に、無法地帯である植民地のディアーブル島(ギアナ)でドレフュスに非人間的な拘留を課すという、反民主的な性格をあらわにした。でもその一方で、ドレフュス派市民の調査と支援が実を結び、一部の新聞が真に権力への対抗勢力となった点で、人権と民主主義が最終的には保障された興味深い史実である。ドレフュス事件の暗い要素、反ユダヤ主義と国家による不正と人権蹂躙は、その後第二次大戦でヴィシー政権に引き継がれたが、人権思想はレジスタンスやその後の人権擁護運動(たとえば現在のサン・パピエの子どもたちを擁護する運動)に生き続けている。

100周年に際して、パリのユダヤ美術・歴史博物館で6月14日から展覧会『ドレフュス、正義のための闘い』が催されているほか、やり直し裁判が行われたレンヌ市のブルターニュ博物館やオーリアック市(写真展)をはじめ、各地で展覧会やシンポジウム、記念行事が行われている。

シラク大統領が13日の記念式典で、「不正、不寛容、憎悪に対する闘いは、最終的に勝利したと安心することができない」と言ったように、レイシズムをはじめさまざまな差別は今日も根強く残っている。現に、1985年に当時のラング文化大臣が発注したドレフュスの彫刻は、士官学校の中庭に設置されるはずだったが、防衛省の反対によって市内の小さなスクエアに追いやられた。軍隊とは、面目にこだわり非を認めたがらない組織なのだ。最近出版されたドレフュスの伝記作家によると、有能な士官ドレフュスが軍首脳部から放逐されたのは、彼がユダヤ系だったからだけでなく、モダンで知的な軍人だったという面も大きいという。厳格な性格だけれど家庭で子どもへの体罰を禁じていたドレフュスは、共和国の法を信じて長い流刑のあいだ無罪を主張しつづけた。ドレフュス事件は今日なお、人間の尊厳について多くのことを考えさせてくれる。

❖2006年7月25日
水辺ラッシュ

ヨーロッパでは猛暑がつづいている。イギリスやチェコで史上最高気温が記録され、フランスでは既に22人(7月23日現在)が猛暑のせいで死亡した。例年より15000人多い死者を出した2003年8月のレベルには幸いまだ達していないが、正直いって「熱い」。困るのは暑さだけでなく、オゾンが発生することだ。7月20日からセーヌ河岸で恒例の「パリ・プラージュ(ビーチ)」が始まったが(8月20日まで)、この暑さではデッキチェアに寝ころんで日向ぼっこをする気にはなれない。

セーヌ河岸の自動車専用道路の一部を歩行者天国にし、砂や植物を運んできてビーチ、スポーツ・遊びの場、プールなどを仮設したパリ・プラージュは、バカンスに行けない人々のために考えられた憩いの場だ。コンサートなどの催し物や本の貸し出しもやっている。1981年以降、5週間の長い有給休暇を誇るフランスだが、4泊以上のバカンスをとらない(とれない)人は、今でも人口の4割いる。この国で2週間の有給休暇がつくられたのは今から70年前、1936年の人民戦線(フロン・ポピュレール)政権のときだった。それまでは、公務員や銀行・オフィスに勤める人(月給をもらっていた人)には多少の休暇が認められていたが、2週間ごとに賃金を受け取る労働者に「何もせずに給料をもらえる」(有給休暇はそういうふうに表現された)権利はなかった。

リベラシオン紙に載った記事によると、有給休暇は1905年、ドイツで最初につくられたという。1910年からオーストリア=ハンガリー、スカンジナビア諸国にとり入れられ、1920年代初頭にはポーランドやチェコ、30年代初頭までにはラテン諸国(イタリア、ギリシア、スペイン、ポルトガル、チリ、メキシコ、ブラジル)にも広まったというのに、フランスでは1920~30年代前半になっても、労働組合の要求事項に有給休暇はほとんど含まれなかった。当時の労働組合は、19世紀末に『怠ける権利』を書いたポール・ラファルグ(マルクスの娘の夫)式の自由思想やフーリエの空想的社会主義を嫌い、「仕事を愛する労働者」という価値観が優勢だったからだという。

さて、1936年5月の総選挙で人民戦線が勝つと、賃上げや労働条件の改善を要求するストが全国の工場に広がった。「今度は勝てるぞ」という確信に支えられた大勢の労働者は工場を占拠し、討論の合間には歌や踊りに興じ、飲食物をもちよってピクニックを楽しみ、老若男女みんなで時空間を分かち合う連帯の歓びが生まれた。6月初旬に内閣を組織したレオン・ブルムはこの状況をくみとり、大至急で有給休暇を制定する法案をつくらせた。法案は、国民議会、元老院ともほぼ満場一致で可決された。それまで裕福な階層だけが楽しめたレジャー、スポーツ、文化に一般大衆もアクセスできるようになった画期的なできごとだ(ちなみに人民戦線が政権を掌握していた期間に、資本家たちは70億フラン近くを国外に逃避させた)。

80~90歳代の人々の当時の回想からは、36年のストのお祭りのような雰囲気や、初めての有給休暇がもたらした歓喜のようすがうかがえる。パリ南東の郊外でセーヌ河に合流するマルヌ河沿いには今でも、当時の庶民の娯楽の場として一世を風靡したギャンゲット(野外酒場・ダンスホール)がいくつか残っているが、そのひとつ、マルタン・ペシュールの向かいの河岸で、今年の5月1日から7月末まで『水辺ラッシュ』と題した野外無料写真展をやっている。人民戦線と最初の有給休暇を謳歌する人々をとらえたのは、アンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ロバート・キャパ、ウィリー・ロニスなど、後に世界的名声を得るカメラマンの面々(当時20歳すぎ)だ。1930年代は、報道写真のジャンルが確立した時代でもあった。

これらの写真の力強さは、カメラマンの腕(視線)だけによるものではないだろう。被写体となった人々の表情を支えるもの、それはおそらく、生きることへの愛と未来に対する希望ではないかと思う。人民戦線のあと、第二次大戦でフランスは占領され、ヴィシー政権のナチス協力という暗い歴史が書かれるが、人民戦線の経験はレジスタンス運動に生かされた。

70年前の歓びと希望に思いを馳せながら、マルヌ河沿いのギャンゲットで小魚のフライをつまみ、ビールを飲んだ。

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